今週の1曲(20)~R.シュトラウス:四つの最後の歌

R.シュトラウスをここ連続して取り上げてきてまだまだご紹介したい作品はありますが、今週でひと区切りします。
当初は楽劇「ばらの騎士」にと考えてきき直そうとしましたが、たいそう長い曲でかさばり、時間くい虫でもあるということと、私がこの作品をみなさんへご紹介するほどの力不足と考え見送りました―でも彼の作品中のみならずオペラの最高傑作でもあるので、いつか機会をつくりたいと思います。
そして今回選んだのは ソプラノ独唱とオーケストラによる 四つの最後の歌 です。

この作品はR.シュトラウスの亡くなる1年前、1948年に書かれました。彼は1864年に生まれて1949年に亡くなっていますので、とても長命でその創作期間も同様に長かったのですが、生涯を通じてソプラノの高い声を愛していたそうで、オペラやリートでもその見せ場があり、その魅惑的な歌声にきき惚れます。

第2次世界大戦後スイスで隠居生活というか、戦犯容疑もあったので隠遁するように暮らしていた彼が、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1786~1857 ドイツ・ロマン派の詩人でヴォルフなども付曲しています)の詩に接して晩年の心境と重なり、インスピレーションを受け書かれたのが「夕映えに」です(1948年4月作曲)
その後、ファンから贈られたヘルマン・ヘッセ詩集からも共感を覚え「春」を7月に「眠りにつくとき」を8月に翌月には「9月」の3曲を書き上げました。
演奏されるのは出版の曲順に従い「春」―「9月」―「眠りにつくとき」―「夕映えに」というものが一般的です。

第1曲「春」 「ほの暗く長い冬からまばゆいほどの春が訪れた―」というような内容の春を讃える歌です。
冒頭ではまだ寒い冬から春の目覚めを印象付けて、しだいに鳥の声や樹の葉のそよぐ音が春の到来を描き「春」=「恋人」をイメージできるような、老人とは思えないみずみずしい音楽です。

第2曲「9月」 「夏が終わって庭は悲しみ、冷たい雨が降っている。次々と沈んでいく夏の庭の中で驚き、疲れて、物憂げな微笑みを浮かべる。ばらの花のもとにとどまって、やがて大きな疲れた目を閉じる」という大意です。夏から秋への季節の移り変わりを人生の終焉に例えて、黄昏に近づいていることをワーグナー風のオーケストラの細かい動きで描きます。曲の最後できこえてくるホルンの音が、告別への余韻みたいに響きます。

第3曲「眠りにつくとき」 「いまや私は昼間の営みにあき、疲れ果てた。私の願いは疲れた子供のように夜を迎えることである。私の手よすべての行為をやめよ、私の額よすべての思考をやめよ。いまやただ眠りの中に沈もうとしている・・・」夜の訪れを死へのイメージと重ねた詩なのですが、音楽は憧れに満ちたもので中間部できかれるヴァイオリンのソロはロマンティックで、拡大されたオーケストラの包み込まれる響により、死への不安よりも受け入れる心構えといったようなものが伝わってきます。

第4曲「夕映えに」 もうこれは完全に死の予感に満ちている曲で、詩の大意は「苦しみ、喜びも私たちふたりは手を取り合って歩んできた。今はさすらいをやめて静かに休もう。2羽のひばりが夢を追うように大空を飛んでいる。さえずるのはひばりに任せて私たちは眠ろう。静かな安らかな夕映えの中で。旅の疲れがなんと重いことか。もしかしたらこれが死というものだろうか」というような内容です。
冒頭の雄大なオーケストラの響きは太陽が地平線に沈む画が目に浮かび、リヒャルト・シュトラウスらしい描写力に引き込まれます。幾重にも重ねられるメロディーが祈りを繰り返しているみたいで、終わりの長い後奏では憧れであったり、人生へ回顧をしつつ鳥の声が響く中で天に昇っていくような印象を受けます。
このアイヒェンドルフの詩につけた曲が一番最初に書かれたわけですが、4曲の最後を飾るのにふさわしいものだと思います。

リヒャルト・シュトラウスの作品を続けてご紹介してまいりましたが、こうやって初期の交響詩「ドン・ファン」と「四つの最後の歌」を比べてみて彼が老境に至っても魅惑的で、華麗な音楽を女声(女性)を使い描いていることに「元気がありますね」声をかけてあげたくなります。

《Disc》
いい演奏はたくさんありますがこの曲を何回も録音しているカラヤンが、1984年にアンナ・トモワ=シントウと録音した演奏が好きです(オーケストラはベルリン・フィル

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