投稿

2015の投稿を表示しています

松本交響楽団 第73回定期演奏会

イメージ
新居への引越し&ネットを引かなかったので更新がご無沙汰になってました。 ザ・ハーモニーホール会館30周年演奏会として松本交響楽団をきいてきました。 プログラム ・ドヴォルザーク チェロ協奏曲 ロ短調 作品104 ・ベートーヴェン 交響曲第5番 ハ短調 作品67 チェロ独奏はスロヴェニア出身のルドヴィート・カンタさん 指揮は常任の丸山嘉夫さんです。 このオーケストラについては既に色々書いているので今日はマイナス面は少なめにーみんな一生懸命弾いてるのは分かるけど、もう少し周りの音もききましょう。ホルンはもっといや、相当ガンバレ! チェロ群は少ないコントラバス群の分まで支えて大健闘していました。 また、ティンパニ奏者も存在感がありバランスよい音量でオーケストラの音色を際立たせようとしていました。 またアンコールはベートーヴェンの序曲レオノーレ!という5番シンフォニーの後のアンコールにしてはかなり難儀な曲ですが一番の熱演でした。 総督到着を告げるトランペットを舞台裏で吹かせ、2回めの時はやや近めで吹き近づいていたような立体感、ミスなく伸びやかな音でした。 あと、5番シンフォニーの終楽章の終止部でタメをつくっていて面白かったです。また、テンポもアマチュアオーケストラにしてはけっこうなもので推進力と熱気をもたらす丸山さんの指揮でした。 最後になりますがカンタさんのチェロは真っ当なきかせどころを心得ていると感じました。 ココからは今回の演奏会で一番感じたこと‼︎ 聴衆のマナーの悪さ!きっと普段音楽に触れることのない連中、というより気の回らない人ばっかし。 プログラムと一緒に大量のチラシがポリエチレンに入っていたのですがー個人的にはこのチラシ要りません!プログラム渡す時に欲しい人だけに渡すとか、出入口付近に置いておき場内アナウンスの時に案内するとか考えて欲しい。一番は音の出るポリエチレン袋はやめて下さい。自分の席の真後ろのジジイは演奏会の間ずっとパリパリ、チャリチャリ…殺意を覚えました( T_T)\(^-^ )他の奴らも演奏中にプログラム出して見るたびにカサカサ・カサカサ…殺意がふつふつと…そしてたくさんのチラシなんだから滑り落ちることくらい分かるはずなのに床にばらま

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その6)

イメージ
無茶苦茶暑い日が続きますが今週も頑張ってショスコーヴィチの交響曲完聴記、今週は第9番と第10番です。演奏は例によってバルシャイ指揮WDR交響楽団です。 交響曲第9番 変ホ長調 作品70 交響曲第9番といえばベートーヴェン以来、その作曲家の最高傑作が書かれると相場は決まっていました。それもショスタコーヴィチの場合は第2次世界大戦の戦勝を祝うということで手掛けられました。当然誰もがベートーヴェンのあの「第九」のような壮大な音楽を想像しました。しかし、発表された交響曲は軽くシンフォニエッタという形式できました。 その肩透かし戦法!?により運命の神様もあきれ返ったのか交響曲第9番を書く死ぬというジンクスからは逃れてこの後まだ第15番まで交響曲を完成させました。でも、ソ連当局からは睨まれることになりました。 第1楽章、序奏なしでいきなり軽くスキップしながら口笛吹いて街中を歩いているような―ソビエト政府が対ドイツ戦=大祖国戦争の勝利を期待した魂胆を見事に裏切ってくれたショスタコーヴィチ流のペロッと舌を出しているみたいな音楽です。 第2楽章は静かで落ち着いた佇まいの緩徐楽章。その室内楽的な響きは戦勝とは真逆の精神といえるでしょう。でも、乾いたパサパサ感はショスタコーヴィチらしいです。 第3楽章、ここにきて音楽は激しさを加えて金管、小太鼓が軍隊を連想させるような音を出します。それは戦争を思い出すような表現! 続く第4楽章は次の第5楽章への橋渡しのような役割で新しい闘争の前の前奏曲といった不安で陰鬱なもので、ファゴット・ソロに導かれてフィナーレに入っていきます。 第1楽章の楽想が冷静になったみたいな音楽で悲しさが付きまといます。でも急に終わり近づくとテンポ・アップして熱狂の坩堝に放り込まれます!これが戦争に勝利してバカ騒ぎ政府の役人たちを揶揄しているように白々しくて最後は「やってられないよ!」もしくは「つきあいきれないよ!」とばかりにパッと曲を閉じます。 この交響曲は決して軽い=傑作ではないというわけでなく、むしろ彼の持っている手法がギュッと濃縮された作品といえるでしょう。 交響曲 第10番 ホ短調 作品93 第9番の交響曲でシベリア送りになりそうになったショスタコーヴィチ。批判を避けるように映画音楽やオラトリオ「森の歌」といった政府

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その5)

イメージ
ショスタコーヴィチの交響曲完聴記、今週は第8番ハ短調作品65です。 演奏は例によってバルシャイ指揮WDR交響楽団です。 第7番が映画音楽風なスペクタクルの描写音楽に近かったものに対してこちらはより精神的にも深い音楽です。 1943年のドイツ軍の夏季攻勢(ツィタデレ作戦)が失敗し、米英連合軍のシチリア上陸作戦の成功、ソ連の冬季反攻作戦が行われ、イケイケムードの中で初演された交響曲。しかし、この作品からはそんな雰囲気はきこえてきません。 全曲の三分の一を占める第1楽章(このディスクでは27’27”)のほとんどが緩徐楽章ともいえるもので、冒頭の苦痛に満ちた心の奥底からの叫びのようにして奏せられる低弦のメロディー。とっても暗くて精神的な音楽でいいねぇ~!と感じます。こういったの好きです。 その暗さを時のソビエト政府は非難したと言われますがこちらの方がはるかに素晴らしいです! 第7番のようなentertainmentの勝る交響曲を書いた後にこの魂の音楽ともいえる第8番を書いてしまうのだからやっぱりショスタコーヴィチは不思議な天才であると思います。 第1楽章の中盤で突然マーチのような音楽が入ってきますが、恐怖に怯える人達(ショスタコーヴィチ自身も含めて)を描いているようです。それが静まると弦楽器のトレモロの上でイングリシュ・ホルンの長いソロが始まりますが、そこに広がるのは戦争で荒れ果てた大地があり、戦争とは何ら生産活動の無いただの破壊でしかないという虚しさを伝えています。 第2楽章はおどけたピッコロやファゴットといった木管楽器がソロイスティックに活躍するスケルツォ風の性格を持つ楽章ですが、どことなく暗い影がついて回ります。 第3楽章は規則正しい弦の刻むリズムから始まるのですが、この急迫感はソビエト軍のドイツ軍に対する反攻作戦の戦場を描いている設定でしょうか?その弦の刻むリズムは戦車のキャタピラ?小太鼓は機関銃の音?突撃する歩兵達?その地獄のようなゾッとするような恐怖が頂点に至るとそのまま第4楽章に入っていきます。それは一転して葬送のための音楽といえるラルゴで、第1楽章のイメージが回帰したような楽章です。 木管のハーモニー吹奏により始まる第5楽章、戦闘が終わり平和が訪れたかのように冷たかった空気が初春の風に変化したようになります。しかし、

今週の1曲(36)~ブラームス:哀悼の歌(悲歌)

今週ご紹介する作品はブラームスの合唱曲 「哀悼の歌」(悲歌)作品82 です。 友人でもある画家、ヘンリエッテ・ フォイエルバッハの死去に際してその追悼として1880年~1881年作曲され彼の母親に捧げられました。 シラーのギリシャ神話の「オルフェオの冥府下り」や美少年アドニス、トロイア戦争で死んだアキレスの母親の嘆きといった「死」に関するエピソードをベースに作られた詩が格調高く、フォイエルバッハの生涯は芸術家として不屈・不変のものとして描いているようです。 冒頭、 「Auch das Schone mus sterben (美しきものとして滅びねばならぬ!)      Das Menschen und Gotter bezwinget (それこそが人々と神々の支配する掟)」 と歌われるカッコイイ詩と音楽に美しすぎて息をのみます! 終わりの 「 Auch ein Klagelied zu sein im Mund der Geliebten ist herrlich(愛する者の口より出ずる 嘆きの歌は素晴らしいものだ)」 を繰り返して曲を感動的に、しかも悲しみを乗り越えるように力強く、名残惜しげに曲を閉じていくところが崇高な感じで最高です。 題名が「哀悼の歌」とあり「死」を描いているのですが、美しくロマンティックな音楽に甘美さがあってブラームスはシブ~イというイメージですが、根っこのところはやっぱりロマン派の作曲家なんだなぁと実感する作品です。 《Disc》 もっぱらマーラー指揮者という印象の ジュゼッペ・シノーポリ が チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、プラハ・フィルハーモニー合唱団 を指揮したディスクは繊細な表現が素晴らしいです。あと、FMできいた ティーレマン が ベルリン・フィル を振った演奏も力強さといった面ではとてもよかったと思いました。

中山七里著「おやすみラフマニノフ」を読んで

イメージ
クラシック音楽とミステリーを絡めた小説でデビュー作である「さよならドビュッシー」そして「さよならドビュッシー 前奏曲」を以前読んでミステリーというよりはかなりライトなもので音楽小説という傾向が強いもので面白く読みました。   内容は音楽大学の厳重管理の保管庫から時価2億円のストラディヴァリウスのチェロが盗難に遭うという事件を発端に様々なことが起きていきます。 今回もデビュー作から登場している岬洋介という人物が探偵となり事件を解決に導きます。 ミステリーという面から読むとチェロ盗難のトリックはやや強引であったり、まとまりの無いオーケストラがしだいにまとまっていくくだりはマンガ「のだめカンタービレ」にダブったり、オーケストラのチューニングがヴァイオリンから始めるとか、オーケストラの金管・木管楽器の配置について首を傾げる描写などがあったりと雑念が入りますが、謎解きを楽しむというよりは登場人物の成長、所々で語られる言葉が印象に残ります。そしてなんといってもこの本はクラシック音楽を文章として読ませるということでは一番面白いです。 物語の最初に出てくるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の演奏シーン、パガニーニの「24のカプリース」や集中豪雨の中、避難所の体育館でチャイコフスキーにヴァイオリン協奏曲、物語のクライマックスで演奏されるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では音楽描写と登場人物の心情表現の両立が見事です。 難しい言い回しや複雑なテロップが無いぶん、文学としてみたもの足りないですが、クラシック音楽ファンなら音楽の演奏場面だけでも読んでみると良くきき込んでいる作品でも改めてきいてみたくなります。 作品のあちこちで語られる言葉には作者から読者へのメッセージが込められているようで、例えば56ページでは音楽家を目指す学生のアルバイト先であるとんかつ屋の親爺さんが音楽を職業とする難しさを述べる所は楽器を習わしている親子に、86ページでは就職活動を全敗した女子大生が愚痴るところは学生のみではなく正規雇用で働けない若者たちにも読ませてあげたいです。 331ページで出てくる「音楽は職業ではない。生き方なのだ」というくだりは七里さんがこの作品を通じて一番伝えたかった事のように思われ、この方は作風からはあまり感じられませんが熱い心の持ち主なのでしょうか?

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その4)

イメージ
バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団によるショスタコーヴィッチの交響曲全曲試聴シリーズの今回は第7番ハ長調作品54「レニングラード」をききます。 第二次世界大戦におけるドイツ包囲下にあるレニングラード市内で作曲され、第7番・第8番・第9番は戦争三部作ともいわれます。 1942年に初演されるとともにイギリスやアメリカなどにおいてもファシズムと戦うための戦意高揚音楽のような大々的な扱いを受けていたそうです。その好評ぶりに当時アメリカで不遇をかこっていたバルトークは嫉妬してか皮肉たっぷりに「国家の奴隷になってまで作曲家するヤツは馬鹿者」みたいなコメントを残しています。 各楽章には戦争を意識させる「戦争」「回想」「祖国の荒野」「勝利」といった副題が付けられていましたが初演時には全て削除されたそうです。 第1楽章、ショスタコーヴィチらしい?明快で分かり易い始まり、いかにもききて(ソ連共産党)を騙すためのテクニックのように感じます。田園的で確かに耳になじむ美しいメロディーではあります。そこに侵略のテーマといわれるメロディーが小太鼓によって示されますが最初フルート・ソロによるのであまりにものんきにきこえて―平和に暮らすところへ遠くからドイツ軍がやってくるという表現なのかもしれないですが、何とも危機感が少ないものです(それも12回!も繰り返される)あまりにも開放的にきこえるのでまるでドイツ軍が解放者!?では?と思ってしまいます。 そのテーマが次第に牙をむいて侵略が始まります・・・軍靴に踏みにじられる大地、銃撃、ダイナミックな音響に圧倒されます。その後しんみり調の音楽、戦禍による人々の嘆きを歌っているようですが、明日への希望を与える感じがなんとも予定調和的な印象で全体的なストーリーが読めてしましそうです。 第2楽章、ひっそりとしたオーボエ・ソロの情感あるメロディーからはじまります。そこへクラリネットが素っ頓狂な―高音で奇声を発しているように吹かれて、ききてが驚いているところにスケルツォを思わせる動きが戦争を回想しているように思われ、嫌な記憶が駆け巡った後に再び冒頭の静けさが戻って来て楽章を閉じます。 第3楽章、弦楽合奏によるエレジーは第5番・第6番の緩徐楽章を思わせ、木管楽器のハーモニーはコラールのように響く長大な楽章(この演奏では約18分) 寒々として広々

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その3)

イメージ
ショスタコーヴィッチの交響曲をバルシャイ指揮ケルン放送交響楽団による演奏で順番にきいていくシリーズの第3回。 「革命」 の副題でも呼ばれることがある 交響曲第5番ニ短調作品47 からきいていきます。 彼の作品中でも代表作=傑作という扱いを受けている交響曲ではありますが、今回こうやって第1番から順にきくと同時にショスタコーヴィッチの生涯についても調べていると傑作化ということに関しては個人としては「保留」という意見になりました。 この作品が発表された時期というものを考えてみると、ショスタコーヴィッチの地位は極めて危うい時のもので、発表する作品、作品がソ連当局により「非社会主義的」と断罪されていました。 ちょうどスターリンによる大粛清時代とも重なり、前衛的な交響曲第4番も初演直前に取り下げるという経緯もありました。 この時代のソ連において当局に睨まれるということは=社会的失脚を意味して、「死刑」もしくはシベリアかどこかに連れ去られてしまうという極めて危険な状況下であったということです。 そういったことでは「生きていくために書かれたシンフォニー」と言ってもいいかもしれません。ですから第1番から第4番からきいてきた耳にはちょっと腰が引けているように思えます。 彼独特のリズムや打楽器攻勢、金管楽器の咆哮、アイロニーに満ちたフレーズが控えめで、バランス重視の構造、分かり易いクライマックス設定にきこえます。それが当時のソ連当局をダマシて現代の我々の耳もだましているのでしょう。 第1楽章の冒頭は言うまでもなく第5番=ニ短調、そう!ベートーヴェンのそれ「運命交響曲」を明らかに意識してテーマをつくっていると気付く、かなりケレン味がある弦楽器によるカノンです。 第2楽章間奏曲風なスケルツォ。マーラーっぽい香りがする始まりから次第にリズムや管楽器にショスタコーヴィッチらしいひょうげたフレーズが登場―しかし暗い影が常に付きまとっています。 第3楽章このラルゴにこそショスタコーヴィッチの交響曲第5番の存在価値があるといっていいのではないでしょうか?そのくらい美しくて沈痛な響きに満ちています。 とめどなく流れる涙のようです。それをグッと怒りなのか痛みなのか、それともその両方なのか?をこらえているみたいです。 金管はすべてお休みで弦楽器―それも弦楽五部をさら

今週の1曲(35)~テレマン:12の幻想曲(無伴奏ソロ・ヴァイオリンのための)

イメージ
皆さんは ゲオルク・フィリップ・テレマン (1681~1767)に対する認識はどんなものでしょうか? J.S.バッハよりも4歳年長で、なお17年も長生きした彼は20歳そこそこでアイゼナハの宮廷楽長から教会務めを経てハンブルクの街の音楽監督として過ごした時期に代表作と言われる「ターフェルムジーク」や協奏曲などの数々を残しています。また、そういった作品を出版して収入を得るといったビジネスの才能もあって、当時はドイツの地方都市の楽長でしかなかったバッハに比べることもできないくらいの名声と人気を誇っていたそうです。 作風は表現がストレートで長調では明るさと温かさ、時にはジョークを交えつつ、短調ではマジメな顔つきでとメリハリがはっきりしています。技巧的なところやきれいなメロディーもあるので才能が豊かであったことは確かで、 休日の朝のひと時や精神衛生上からもふさわしい音楽でしょう。 でも、ここまでテレマンの作品が残ってきたのは新しい感覚を身に付けていた人で、特に晩年はドイツの文学運動から派生した「シュトゥム・ウント・ドラング」の時代でありましたが、そういうものには染まらず、バッハの息子たち―フリーデマンやエマヌエルなど前古典派のような響きにも似ています。 しかし、私にとってはテレマンが大作曲家なのかビミョーな位置にいます。一般でもこのオリジナル楽器演奏氾濫のなかそれなりに演奏もされ、ディスクの数もあるのにバッハやヘンデル並みの扱いではないと思います。 それは彼があまりににも多くの曲を書きすぎたということに尽きるのではないでしょうか? その数4,000曲!オペラや声楽曲、器楽曲、室内楽曲、オーケストラ組曲、そして当時あった楽器の全ての組み合わせで書いたんじゃないかと思われるコンチェルトの数々! 例えばソロコンチェルトはもちろん、二重奏以上の合奏協奏曲もヴァイオリン、フルート、リコーダーあたりの組み合わせは普通で、3本のオーボエやホルンのためのもの、確か3本のトランペットにオーボエだったかフルートが加わり、ティンパニも入るコンチェルトを目にしたことがあります(未聴ですが音量的にはかなりにぎやかというかグロテスクな感じが漂ってきそうです・・・) そんな子だくさん?なテレマンから 独奏ヴァイオリンのための12のファンタジー(幻想曲)  をご紹介します。

新居建築Vol.6~身辺雑記

イメージ
15日金曜日に無事上棟式が終了。 シートが張られてよく中が見えなかったのですが今日入ってみて床板が完成して、バスルーム、電気関係の配管・配線はほぼ終了していました。 小さい家なのに過剰なほど耐震の備えがしっかりしていることにびっくり! 狭い柱の間に筋違をつけ、柱のほとんどにボルトや金具が取り付けられていました。 式の終了後、家の真ん中の屋根裏に神様が取り付けられました。 より安心になったような気持ちになりました。 特別に足場を昇らせてもらい屋根の上までいきましたが、高所恐怖症の私は怖かった~風が強いので足場が揺れ余計に怖い。降りようとすると下から妻も昇ってくるし・・・写真を撮ってもらいましたが、速く降りたくてしょうがなかった・・・自分でもわかるくらい顔が引きつって、唇が乾燥していました。 でも、見晴らしは最高でした!(よく見るゆとりはありませんでしたが。。。)

新居建築Vol.5~身辺雑記

イメージ
GWが終わった6日と7日で上棟が終わりました。 作業現場を見ていましたが見る見るうちに柱から張りまで組まれていく様子を見て職人さんたちの仕事ぶりに感嘆してしまいました。 高いうえで柱の上に立ち作業をしている姿を見て高所恐怖症の私にはできない仕事だと思いました。。。  これが「いの一番」といわれる柱で先日ブログに書いた暗号みたいなものの正体で、 「いの一番に駆けつけるの」語源にもなっている一番最初に建てる柱だそうです。 上棟が終わってシートをまかれた状態、ここからは見た目には分りにくい地味な作業が続くらしいです。 職人さんたちにとっても上棟は一番華々しく見せ場らしく、会社総出で取り掛かっていて、現場監督自身も職人さんたちに交じって作業している姿を見て、好きなことを仕事にしている人の姿は素晴らしいと感じ、改めて建設会社の皆さんに信頼感が湧きました!! 私自身、この建設会社さんとの出会いが家をつくるきっかけを与えてくれたので感謝です。

新居建築Vol.4~身辺雑記

イメージ
GW前に足場が組まれて資材も搬入されていました。 5月6日にはいよいよ上棟がスタートして本格的に家の形になってきそうです。   足場の組まれた状態       搬入された材木。  「又ぬ2」とか意味の不明な文字が書いてありましたが 専門家が見るとどこの柱かわかるんでしょうねぇ~スゴイ!

わくわくキッズコンサート感想記~inザ・ハーモニーホール

イメージ
先日、息子を児童センターに迎えに行った時に 「わくわくキッズコンサート(こころにホットコンサート)」 なるヴァイオリンとピアノのデュオ・コンサートのチラシを見かけどんなものか出掛けました(入場無料ということもあったので) 於:2015年5月5日(火曜日)10:00~松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール) 第2回とあり、前年のこの時期にも開催したそうで、他にも病院や介護施設、児童施設などあちこちで開催しているみたいで、会場でもらったチラシを見たら第1718回!となっていました。 演奏者はヴァイオリンは 牛山正博さん 。地元アマチュア・オーケストラの代表を務め、音楽教室を持ち教育活動もされているので以前から知ってはいましたが、ソリストとしてきくのは初めてでした。 ピアノは 野田あゆ子さん 。私の実家の隣村に「野田ピアノ教室」というのがあると思ったら、そこの先生でした。ヴァイオリンも弾かれるそうで、その師匠が牛山さんになるので師弟共演とでもいうものでした。 プログラムはクラシックから唱歌、ディズニーやジブリの音楽と幅広く薄く気軽に、普段は決してクラシック音楽のコンサートに行かない様な人を主に対象にしたようなものだったので、乳幼児からその親、そして牛山さんの友人・知人?教え子も来ていたのではないでしょうか? 演奏については・・・こういったコンサートなので置いておいて、主に感想について書きたいと思います。 ヴィヴァルディの協奏曲集「四季」~「春」の第1楽章 が弾かれたのですが、今ではオリジナル楽器の個性的な奏者、ファビオ・ビオンディやエンリコ・オノフリまたジュリアーノ・カルミニョーラなどをきいたしまった耳には(と言ってもここ何年もこの作品はご無沙汰していますが。。。)箱庭的自然風景のようにきこえて、「四季」をイ・ムジチ合奏団とともに大ヒットさせたカール・ミュンヒンガーの指揮のもとバルヒェットがソロを弾いていた演奏が頭の中を過りました。 ベートーヴェンの「スプリング・ソナタ」からの第1楽章 もキチン、キチンと今日は少なくなりましたが、デパートの贈答用包装紙に包まれたお中元(お歳暮でもいいケド・・・)を頂いた感覚―良く言うと律儀、でも時代とのギャップを受けるものでした。 そういった意味では一番違和感なくきけたのが 「おぼろ月」 と 滝廉太

今週の1曲(34)~ストラヴィンスキー:バレエ「プルチネルラ」組曲

イメージ
バレエ「火の鳥」(1910)、「ペトルーシュカ」(1911)、「春の祭典」(1913)で頂点を迎えた前衛的で野心作を次々と発表していってトンガッテいたストラヴィンスキーが第1次世界大戦以降、突如180度回れ右をしてシンプルで明快な古典主義時代といわれる作風に入った第1作がこのバレエ「プルチネルラ」です。 音楽自体の元はストラヴィンスキーのオリジナルというわけではなくて、イタリア・バロック時代の作曲家ペルゴレージの曲に基づき―他にも今では名前も忘れられて演奏されることもないバロック時代の作曲家の作品からもアイデアを借用されているそうです。しかし、どの曲が誰の作品かなどと気にしないでも十分楽しめます。私ももちろん知りません。 俗に三大バレエと呼ばれる先の3曲「火の鳥」・「ペトルーシュカ」・「春の祭典」も名曲ですが、私個人としてはストラヴィンスキーの曲をきくとなったらこの「プルチネルラ」や「ミューズの神を率いるアポロ」・「妖精の口づけ」といった新古典主義の頃の作品を取り出すことが多いです。 「プルチネルラ」は例の「春の祭典」などと同じくディアギレフから依頼されたのですが、最初は乗り気ではなかったのですが、ペルゴレージなどの作品に触れることにより新しい芸術の作風を模索していた両者の利害が次第に一致していき生まれたものです。 全8曲からなるこの組曲は前奏曲から快いリズムと晴々とした、気分浮き立つ音楽が始まります。 躍動的なリズムとイタリア・バロックの太陽の光を浴びたような明るさ、どことなく影もあったり、午後の昼下がりから夕暮れの画が思い浮かぶような陰影のある旋律もあり、難しいことをゴチャゴチャ考えずにきける作品です。 しかし、そこはストラヴインスキー!あちらこちらに新しい響きや不協和音がきこえてきてききてを飽きさせません! どのような振り付けだったのか気になるくらい速くて踊れそうもない第4曲のタランテラ。 第7曲ヴィーヴォではトロンボーン&コントラバスによる珍しい二重奏は少し不気味でブラック・ユーモアのようにもきこえます。 第8曲フィナーレの鳥が羽を広げ大空に舞いあがっていく様な盛り上がりも素晴らしいです。 どの曲も短くて、簡潔なので俳諧の世界観にも通じるようです。 【Disc】 古楽器演奏のスペシャリストから活動の幅を広げていった2003年

インバル&都響によるマーラーの交響曲第9番

イメージ
昨年3月東京芸術劇場で生演奏をきいてきたエリアフ・インバル指揮による東京都交響楽団によるマーラーの交響曲第9番のライブ録音のディスクが発売されたのできいてみました(Octavia Records) インバル&都響による「新・マーラー・ツィクルス」は毎回ディスクになってきたのですが、あまりにも高額(1枚約税込3,500円弱!)なのとあまり新譜を追いかけてきいていく習慣がないのでなかなか手が出ませんでした。しかし、今回せっかく実演をきいてきたのだから、あの圧倒的な印象をうけた体験をもう一度できるかな?と思いながら行きつけのディスクショップへ注文したのでした(ご店主いわくこのレーベルのディスクは買い取り制のため受注販売をしているそうです) 演奏は私がきいた東京芸術劇場のみだけでなく、翌日の横浜公演、その翌日のサントリー・ホールでの3公演からのテイクが使われている様ですが、もちろんそれがどれなのかはききわける耳は持ち合わせていませんが実演での記憶がよみがえってきました! 第1楽章の張りつめた空気からしだいに熱を帯びて、嘆きが描き出されていきます。インバルの演奏は気迫が込められていて―時々オーケストラを激励するような唸り声も入っていて、実演でもきこえていましたがマイクセッティング上からもこちらの方がリアルにきこえてきて、これが嫌だという方と、熱気が伝わってきていいという方がいるかも知れません。 マーラーがこのシンフォニーを書いていた時の心境まで伝えてくれるような息苦しくなるような緊張感があります。しかし、ただそういった感情表現ばっかし重視の演奏ではなくて、磨き上げられた金属的なツヤツヤして冷たい肌触りもあります。 感情表現をバリバリ出す演奏の代表といえばバーンスタインを筆頭にテンシュテットやベルティーニ、そしてシノーポリあたりがマーラー好きな方にはよく知られています。そして精緻な演奏といえばラトルやアバド、ブーレーズあたりが浮かびますが、インバルの演奏はそのどちらかに極端に傾くわけではなく両者のバランスが見事にとれていて、でも中途半端では決して無いのが 多くの方の支持を集めることになっているのではないでしょうか? そういった面ではマーラーの作品が演奏会でも多く取り上げられるようになって40年から30年くらいのあいだ様々な解釈や演奏がなされてきた完成

新居建築Vol.3~身辺雑記

イメージ
基礎工事が始まったようなので現場まで子供と歩いて行ってきました。     こうやって見ると元からそれほど大きくない家がもっと小さく見えるのですが・・・連休明けには棟上げになるそうです。

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その2)

イメージ
ショスタコーヴィチの交響曲全曲完聴記、今週は第4番をきいていきたいと思います。 ショスタコーヴィチの交響曲の傑作という人もいるくらいの完成度と長さを誇ります。この曲の特徴は1935年から36年の約9か月をかけて手掛けられ、ショスタコーヴィチ本人が「自分の仕事の集大成」というような言葉を残しているようにかなり意気込んで取り掛かかって、途中破棄された断片までが「交響的断章~アダージョ」としても残っているように試行錯誤、難産の末に完成されたものの、リハーサルも最後になったころに突如スコアが引込められて1961年に初演されるまで封印されてしまったということです。 それはなぜか?当時スターリン治政下の大規模粛清の嵐が吹き荒れていて「赤軍のナポレオン」と呼ばれたトハチェフスキー元帥までも処刑されるという「赤軍大粛清」事件も発生した時で、その関係してショスタコーヴィチ自身まで当局の事情聴取まで受けていて、その前の1936年に初演したオペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」やバレエ音楽が批判の対象になっていてこともあり、彼自身慎重になっていたといわれています。 まあ、長い話をくどくど書いていてもしょうがないので曲について書いていきます。 すれっからしのショスタコーヴィチ・ファンが泣いて喜びそうな音楽が第1楽章からきこえてきます。打楽器はガンガン鳴り、色々なモチーフが出てくるは、金管も吠える・・・マーラーのカリカチュア?オマージュ?賛美?また、リズムがマーラーの交響曲第4番の冒頭の鈴の音にも似たものが一瞬顔をだしますが、これもそうでしょうか? 中間部では狂ったような激しいフーガが登場しますが切迫感があって「ヤバイ」といっていいくらいで、本当にショスタコーヴィチは「狂」の面を感じさせる作曲家であると感じる瞬間です(それが本人が計算ずくでやっている可能性はあると思いますが・・・) 第2楽章でもマーラーではよくきかれる「レントラー」による第1楽章と終楽章である第3楽章を繋ぐインテルメッツォのような形の楽章です。 ショスタコーヴィチにしては!?意外とマジメ君で書いてあるように思うが少々ヘンテコなズレタたメロディーが出てきます。 終わりの所でポキポキとやるフレーズがでてきますがその乾いた音の響きは墓地で踊るガイコツのような不気味さでゾッとします! 終楽章。ここでもラ

新居建築Vol.2〜身辺雑記

イメージ
今日は午前中に建築会社さんの担当者とタカラさんのショールームへお風呂など水回り関係の検討へ。 タカラさんはメンテナンスや耐久性で抜群のホーローがイチオシで汚れに強くて、基本は洗剤無くて水だけで掃除出来るということにビックリ‼︎ 妻は他社さんのショールームも見学するらしいですが、私的には水回り全てタカラさん統一でいいと思います。 今まで妻に任せてというか、本人がどんどん進めていたので積極的に関わってこなかったのですが、現物を見たり、外壁やら屋根の色といった話になってくると現実味を帯びてきます。 建築担当者の熱心な説明やアドバイスに感謝しています。 午後は現地の様子見に行きました。 来週は水回りの配管、そしてコンクリート打ちがある予定です。

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その1)

イメージ
ことし2015年は旧ソビエト連邦の作曲家 ドミトリー・ショスタコーヴィチ が1975年に亡くなって40年になります。 個人的にはショスタコーヴィチの積極的なききてではなくて、第1番のピアノ・コンチェルト、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、一部のカルテット・・・シンフォニーも第8番・第10番そしていうまでもなく第5番くらいなものです。 これを機にまず取っ掛かりやすそうなシンフォニーからきいていこうと思います。 ショスタコーヴィチは交響曲を生涯に15曲書いており、どの曲も興味深いものがあり、彼の生きた時代のソビエト連邦の複雑な政治状況とリンクしているところもあって、そういった暗号やメッセージをきき取ろうとするのも面白いですし、たくさんの打楽器やピアノまで動員した大編成のオーケストラ・サウンドをきくのも面白いです。 演奏はベーシックなものとして評価されている ルドルフ・バルシャイ が ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団) を指揮したものになります。バルシャイは1924年に旧ソビエトに生まれ、ショスタコーヴィチとも交流があって第14番の交響曲を初演を担当したり、弦楽四重奏曲を室内オーケストラ用にも編曲しています。1970年代に亡命後から亡くなる2010年までに多くのオーケストラに度々客演もしていて、何度か来日もしているので生演奏に接した方もいるのではないでしょうか? これから第1番から順にきいていきたいと思います。 交響曲 第1番 ヘ短調 作品10 第1楽章、ミュートしたトランペットとファゴットによる軽快とも不気味ともいえるテーマが印象的で、既にショスタコーヴィチらしいあのせかせかしたリズムの行進曲風の旋律がきこえます。 展開部ではマーラーやストラヴィンスキーをミックスしたみたいな音楽がきこえてきます。 第2楽章は動きの速い弦楽器・管楽器がスケルツォのようで、ピアノ・ソロが登場して皮相的な感じを受けます。 第3楽章は緩徐楽章レント。もの悲しい音楽。重みのある音が深く心に残ります。ロマンティックなところと葬送行進曲による暗さが同居しています。 そのままアタッカで突入する終楽章の始まりは前楽章のレントの寒々とした空気が残っています。アレグロ・モルトに移っていくと感情が高まったように爆破、しかしとつっぜん静かになってヴァイオリン・ソ

新居建築 Vol.1〜身辺雑記

イメージ
今回は音楽以外の私的な事の投稿です。 借家生活を脱出するために土地と住宅を購入しました(^O^) 地鎮祭も済んだ先週土曜日の状況です。 一緒に連れて行った息子は遊び場と勘違いしているようで走り回っていました。。。

今週の1曲(33)~ニールセン:フェロー諸島への幻想への旅

イメージ
今年はデンマークの作曲家・カール・ニールセンの生誕150にあたります。そこで本日はそのニールセンの作品を取り上げたいと思います。 狂想風序曲「フェロー諸島への幻想の旅」 少し冷たい音色が寒々とした北大西洋に浮かぶ島のイメージにピッタリです。 ノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウスと並び北欧の国民的作曲家トリオといえる人で1931年まで生きていましたが音楽の作風としては後期ロマン派に属しているといっていいでしょう。今回ご紹介するこの作品も晩年1927年の作曲なのですが、ストレートに音楽の素材を追及して構成していくところと、R.シュトラウスのような標題音楽がミックスされたような作品で、決してとっつきにくい曲ではありません。 曲の始まりは混沌として調性が不確かでいかにも20世紀に書かれた音楽といった風で、フェロー諸島に向かう旅人を乗せた船がまだ霧の中で視界が開けないといった感じなのですが、しだいに島の輪郭がはっきりしてくるようになると様々なモチーフが出てきて上陸への期待が高まっていくようです。 クライマックスへと向かうと一遍きいたら忘れられないリズミカルで活気のあるメロディーが登場します。島民が旅人の到着を歓迎して教会の鐘を鳴らし、民族舞曲で踊っている様子が浮かんできます。 その後は静けさを取り戻すのですが、ここは私が一番好きな部分で美しい自然の空気を胸いっぱいに吸い込んだ充実感があります。 【愛聴盤】 エサ・ペッカ・サロネンがスヴェーデン放送交響楽団を指揮したものしかきいた事はありませんが、 澄んだ音色が北大西洋に浮かぶ島の空気や磯の香りまで伝えてきます。  wikipediaより転載させていただきました。

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その18)

イメージ
はホグウッド&シュレーダー共同指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集完聴記、全71曲、CDにしてて全19枚!発売された1980年代にはモーツァルト交響曲演奏のエポック・メイキングだったディスクをホグウッドの追悼企画として視聴記録を開始して18回め!、そして全投稿数もちょうど100回!!パチパチパチ(拍手) その区切りに私の大好きなモーツァルトで完聴企画が終了することに偶然とはいえ運命を感じます(^_^;) CD19 交響曲 第40番 ト短調 K.550 こちらが多く演奏されるクラリネット入りのヴァージョン。それにより音楽としては情緒的で音色にも厚みがあるのでロマン派の演奏解釈を継承していた20世紀では主流でした。現在もそうではないでしょうか? 恐らくモーツァルトの友人でクラリネットの作品を書いてもらっているアントン・シュタードラーがオーケストラに参加するためにクラリネット・パートを書き加えたといわれています。 以前は後期三大交響曲は作曲動機や初演についても不明とされていて、お金もなく作曲依頼もなかったモーツァルトが芸術的欲求を満たすためだけに書いた3曲の交響曲などと半ば都市伝説風な風に語られていましたが、やっぱりモーツァルトも人間です、収入や演奏会の見込みが無ければ作曲はしなかったでしょう。現在の研究ではモーツァルトの生前1791年まで何回か演奏されたといわれています。 わざわざクラリネット・パートを書き加えていたということは実際に演奏されたという証拠のひとつではないでしょうか? 第1楽章では追い立てられた人間が第2楽章ではやっと一息ついたのもつかの間、展開部ではフト苦しみを思い出し、また忘れようとしても思い出してしまっているようなイメージで、必死に救いを求めるように祈っているなフシが繰り返し出てきます。 第3楽章のメヌエットのトリオではクラリネットが甘美な音楽として吹かれます。 終楽章、誰かに追い立てられているのか?それとも自らを奮い立たせて前に進んでいるのか? 木管楽器の独立した扱いのフレーズは見事で、当然ながらクラリネットも目立ってきこえてきます。 「ゲージュツはバクハツだ」的音楽 で当時、モーツァルトの創りだす音楽にしだいについていかれなくなったウィーンの聴衆の反感にも屈せず自身の音楽表

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その17)

ホグウッド(コンティヌオ)とシュレーダー(コンサート・マスター)の共同リードでアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックが演奏するモーツァルトの交響曲全集の完聴記、今週はいよいよ後期三大交響曲に突入します。 今回はその第17回。第39番と第40番の第1稿―皆さんもご存じの通りクラリネットが編成に入っていないヴァージョンですね。をきいていきたいと思います。 CD15 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第1楽章。ファンファーレのようなリズムをもった奥深いアダージョの序奏。崇高な響きに満ちて、それは変ホ長調(晩年のオペラ「魔笛」や弦楽五重奏曲K.614もそう)という調性とフランスのオーケストラのために書いた第31番「パリ」やセレナードの改作である第35番「ハフナー」といった特殊な場合でしか加わらなかったクラリネットを編成に含むための効果と思われます。(第40番の改訂によってクラリネットを加えているので例外といえます) 主要部に入っていくときのうっとりするような推移。展開していく音楽は表面的な優雅さだけでなく、モーツァルトの創作の充実が新しいステージに入っていることを実感させるもので、大袈裟ですがロマン派のシンフォニーにも通じていく様にも感じる瞬間があります。 第2楽章は美しい歌の世界としか表現のしようのないほどの透明感!ドラマテックな所と嘆き節が見事に融合させています。モーツァルト生涯最後の年に書かれたピアノ・コンチェルト第27番やクラリネット・コンチェルトなどでもきかれる深まっていく秋のようなはかなさがあります。 第3楽章、K.602やK.605のドイツ舞曲にも似たレントラー風のメヌエットです。またここではクラリネットのデュエットがソロイスティックに活躍してききどころのひとつです。 第4楽章、ハーモニーの美しさ、重厚さを持ちながらも軽快さを失っていないことに感心してしまします。細かい音の粒が固まり、キラキラと光を帯びて輝いているみたいです。コーダにかけて繰り返されるメロディーは勝利の凱歌を挙げているようにきこえ、次の第40番が感傷的な響きなので、後期三大交響曲をひとつのセットとして考えた場合、この第39番は起承転結でいうと「起」=「序曲」ともいえるシンフォニーと思います。 ★★★★★ 交響曲 第40番 ト短調 K.550 (第1

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その16)

ホグウウッド&シュレーダーとアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記、いよいよ後期三大交響曲まで目前です。その前にまだ残っている落穂拾い的なシンフォニーと都市名の付いた「パリ」「プラハ」曲をきいていきたいと思います。 CD14~ 交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 【第1稿】 1778年のフランス旅行の時にパリで書かれ、初演された曲。直前に立ち寄ったマンハイム楽派(当時、ドイツ南西部に位置したこの地には領主の趣味もあって大規模オーケストラがあって、シュターミッツ親子やカンナビヒ、リヒターといった作曲家がソナタ形式とかの古典派音楽の基礎をここから発信していたメッカであったといわれ、ここで当然モーツァルトも就活をしましたが失敗しました)からの影響、そしてパリの聴衆の音楽趣味を考えて堂々ととして活発に動き回る弦と管が花火をドカンと打ち上げたみたいにきこえてきて、ききての度肝を抜くパワーをもった第1楽章。でもそういった初演を成功させなければならないという意識が先行してか、モーツァルトの音楽としては少し無理をしているというか、肩ヒジを張って書いたようにもきこえます。 第2楽章。このアンダンテは後にこの曲の依頼主でコンセール・スピリチェルの支配人、ル・グロという人が長すぎるとイチャモンをつけて差し替えられることになるのですが、これはその前の初稿による演奏です。優美なところと聴衆を飽きさせないように所々でスパイスを仕込んだよく考えられた楽章―ハイドンもこの街の聴衆のために6曲の「パリ交響曲」を書いていますが、それに通じる華美なところが感じらるような気がします。 このシンフォニーはメヌエットを含まないので次が終楽章になります。ピアノから弱く始めてから一気に爆発させるという手法で、これはモーツァルトがパリの聴衆を驚かすためにやったらしく、当時パリではシンフォニーのフィナーレはフォルテで始まるのが習慣だったのをその逆をやったみたということを本人が父宛ての手紙で書き残しています。ユーモアが光り、華麗な音楽です。 ★★★★☆ CD16~ 交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 【第2稿】 こちらは先の一件により差し替えられた第2楽章アンダンテによる演奏で、両端楽章は特に変化はありません。

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その15)

今週はモーツァルトのホグウッド&シュレーダー、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記の15回目、後期六大交響曲ともいわれる最初の第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」をききたいと思います。 CD13 交響曲 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」 (第1稿) 最初に「第1稿」??「ハフナー交響曲」にそんなにヴァージョンがあったことはこの全集をきくまで知らず、「ハフナー交響曲」といえばあの「ハフナー交響曲」でしょう!と思ったら、皆さんご存じの通りこのシンフォニーはザルツブルクの名家ハフナーさんの貴族就任を祝って書かれたセレナードが原曲になっていて、その状態を復元ししてみました的発想で編成からフルートとクラリネットを外して、入場用として作曲されたK.408-2(385a)のマーチを演奏してから交響曲へ入っていく形をとっています。 当然、フルートとクラリネットが無い分”あれっ?”と感じる響きで厚いゴージャスな音をききなれた耳には不思議にきこえます。第2・3楽章には元からお休みなので問題ないのですが、ダイナミックな音が要求される両端楽章ではやっぱり物足りないような気がします。 でも、終楽章の表現力の大きさはモーツァルトの充実ぶりがきこえてきて、いつきいても心が躍ります。 ★★★★☆ 交響曲 第36番 ハ長調 K.425 「リンツ」 第1楽章アダージョの序奏、少し影があって後の短調作品にも通じるデモーニッシュなものを一瞬受けることがあります。アレグロ・スピリトーソの主部に移り、モーツァルトらしい流れていく様な音楽―それがただきき流されるだけでなく、耳にしっかり入ってきます。 第2楽章はささやきかけてくるような優しさがあるのですが、当時の交響曲の緩徐楽章としては珍しくトランペットとティンパニが入るので重厚感があります。 第3楽章のメヌエットでのトランペットのファンファーレが遠くの城壁から響いてくるような情景が浮かんできます。 終楽章はリズミカルで活発な音楽なのですが、弦だけで繋いだり、弦と管で静かに繋いで次にフォルテで全楽器が加わるみたいな綱渡りをみているようなスリリングな橋渡しと、その落差が楽しいです。奏者にしたら自分が失敗したら流れがストップして台無しになってしまうというストレスの中で演奏しなければならない

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その14)

ホグウッド=シュレーダー指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集の完聴企画も14回まできました。 CD12 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 1779年にザルツブルクで書かれたシンフォニー。前後の第32番、第34番などと同様に当初は第3楽章にメヌエットを含まないものでしたが、後にウィーンで演奏する機会があったのでしょう、メヌエットを加えて4楽章のシンフォニーとして伝わってきていて座りがいいためか、モーツァルトの交響曲をたくさんレパートリーにしていない指揮者も昔から取り上げています。例えばクレンペラーやセル、ヨッフム、カラヤン。近年ではアバドやムーティ、そしてあのクライバーまで!(そういえば父、エーリヒ・クライバーにも録音があったと思いますが) 第1楽章、第32番、第34番がトランペットやティンパニを編成に含み、祝典的で劇場型の音楽だったのに対してこちらはオーボエ、ファゴット、ホルン各2本に弦楽というシンプルなため愛らしくて、さわやかな流れのメロディーラインが素敵です。また、ジュピター音型といわれるモチーフが出てきます。まあ、第1番のシンフォニーにも使っているので年少より馴染みのものだったらしく、意図してやったわけではなく、、他にもあちこちの作品で使用されているので無意識のうちに出てくる身近なものだったのでしょう。 第2楽章、よく歌うアンダンテ・モデラート。俗にモーツァルトの「田園交響曲」なんて意味の分からない俗称を解説書の類で書かれていますが、伸びやかな旋律のこの楽章をきいているとまんざら的外れというわけではないとも思います。 第3楽章、きりっと引き締まっていて、後から付け加えられたという先入観できくせいかも知れませんが充実したメヌエットであると思います。 第4楽章はキビキビと楽しい旋律が湧き上がってきて心が躍ります。 全体としてとても親密で親しみ易いシンフォニーで、さすがに後期の作品と比べればややクラシカルな形式で書かれた交響曲という印象はありますが、名人による逸品といえるのではないでしょうか? ★★★★☆ ・シンフォニー ニ長調 K.320      セレナーデ第9番「ポスト・ホルン」の交響曲稿 第33番の交響曲が書かれた直後に作曲されたといわれるセレナード第9番「ポスト・ホルン」

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その13)

ホグウッドとシュレーダーの共同リード、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集企画の完聴記、今週は第13回になりました。 CD11 ・シンフォニア  ハ長調    歌劇「羊飼いの王様(牧人の王」序曲 K.208(K.102+K.203C) 1775年にザルツブルク初演されたオペラの序曲にアリアとフィナーレを加えてシンフォニーの体で演奏している曲です。 冒頭の和音からリズム感がとっても良くてヨーゼフ・ハイドンのシンフォニーみたいです。中間部のホルンのメロディーもハイドン風です。フィナーレも躍動感があります。 ★★☆ ・シンフォニー  ニ長調  K.250(K.248b)     セレナード第7番「ハフナー・セレナード」の交響曲稿 1786年に作曲されたこのジャンルでの傑作といわれるセレナードで、第1楽章、第5,7,8楽章を抜き出してシンフォニーとして演奏しています。また、他の第2,3,4楽章はヴァイオリン・コンチェルトとしても演奏できるようになっている一粒で二度おいしいセレナードなのです。 第1楽章、ザルツブルクの名門ハフナー家の結婚式用に書かれた音楽であることから、大規模な編成でシンフォニックで重厚なものでありながらも深刻にはなっていません。 第2楽章、メヌエット、ガランテ&トリオ ガランテ=粋な、洒落た、とかの意味で、モーツァルトにしては珍しい表現ではないでしょうか?確かに雅で貴族たちがお上品にダンスをしているみたいです。 第3楽章アンダンテは優雅な貴婦人たちの立ち振る舞いを見るようにきき惚れてしまうきれいな音楽です。ヴァリエーションになっていて、変化するたびにグラデーションがかかっていくようになっていき、木管楽器のソロがスーッと入ってきます。 第4楽章、メヌエットと2つのトリオ。ガッツリして堂々としたメヌエット。トリオではフルートの澄んだソロイスティックなメロディーが印象的です。トリオではトランペットが祝典的にファンファーレ風のモチーフを吹きますが、当時、相当の名手がいたであろうと思わせるものです(当然、この頃のトランペットには今みたいなバルブで音を調整出来ない楽器だったのですから)それか、モーツァルトか父親の友人、知人が楽団にいて、仕方なくトランペット嫌いのヴォルフガングも見せ場を作ってあげ

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その12)

クリストファー・ホグウッド追悼企画のモーツァルトのシンフォニーの連続試聴記、第12回めになりました。 ・交響曲 第28番 ハ長調 K.200(K.189k) 1773年から74年に書かれたシンフォニー群の最後に書かれたといわれます(1774年11月) 第25番・第29番を書いた後の作品としてきくと私たちの耳には「後戻りしたのでは?」ときこえますが、当時としては常識的な(むしろそれらより質の良い)古典派シンフォニーでしょう。 編成はオーボエ、ホルンが各2本に弦楽器、そこにトランペット2本にティンパニを加えたやや大きめの規模です。 第1楽章、活発な動きに満ちた音型に彩られた楽章です。 第2楽章、やさしさに包まれるようなアンダンテ。第41番「ジュピター・シンフォニー」の第2楽章できかれる木の葉が舞い落ちていく様なモチーフが出てきます。それを繰り返して変化を加えていっているように思います。 第3楽章、メヌエット。トリオでの第1、第2ヴァイオリンによる二重奏がシンフォニーというよりもセレナード風なのが印象的です。 終楽章はトランペット、ティンパにも戻って来て祝典的な盛り上がりをつくっていきます。ティンパニは花火を打ち上げたようなインパクト、オーボエにはかなりきき所があって、独自性が与えられています。 ★★★☆ ・シンフォニア ニ長調 K.121/K.207a 「偽の花つくり女」序曲 1775年に初演されたオペラの序曲にK.207aのケッヘル番号のついたプレストの終楽章を加えてシンフォニーの形にして演奏しています。 第1楽章アレグロ・モルト~第2楽章アンダンテ・グラツィオーソ~そして終楽章がプレストの3つの楽章が続けて演奏される7分弱の曲です。 オペラの序曲らしく生き生きとした第1楽章、弦楽器主体の優美な第2楽章、終楽章はメリハリがあって爽快感が駆け抜けます。 ★★★ ・シンフォニア ニ長調 K.204(K.213) 1775年に作曲されたセレナード第5番から4つの楽章を抜き出しているシンフォニー・ヴァージョン。 第1楽章アレグロ・アッサイはトゥッティに続く即興的なティンパニが印象的です。その後は強弱、長調・短調が交替する初期のシンフォニーを思い起こさせるものがありますが、にぎやかなだけでこれといった特徴がなく仕事として書いたと

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その11)

ホグウット=シュレーダー共同リード、アカデミー・オブ・エンシェント・オブ・ミュージックのモーツァルトの交響曲全集の試聴シリーズの第11回です。 CD9 交響曲 第30番 ニ長調 K.202(K.186b) 1773年から1774年にかけて次々と書かれたシンフォニー中の1曲です。 第1楽章、ファンファーレのようにして始められる祝典的なイタリア序曲のような音楽で、第25番や第29番をきいてきた耳には少し後退したように思いますが、何らかの祝典行事のための注文を受け仕事として書き上げたものかもしれません。でも、展開部ではイタリア趣味ではきかれないような対位法を使っていて進化があります。 第2楽章はモーツァルトにしては特別魅力のあるメロディーがあるわけではない、大人しい楽章。決して悪いわけではないのですが、イマイチインパクトに欠けてしまいます。 第3楽章のメヌエットも定石通りのもので、しかたなく「カッタルいな~」と思いながら注文仕事を片付けているモーツァルトの姿が浮かんできます。トリオでは室内楽的な親密さが、まさにトリオといった趣があります。 終楽章、追い立てるようなリズムが印象的で「ワッショイ!、ワッショイ!!」と神輿を担いで騒いでいるみたいで落ち着かないです。ここでも祝典的にしたいのかメロディーよりも同じリズムで押し切り、終止部もフト終わってしまうのであっけなくて満足感が無いシンフォニー。書いていたモーツァルト本人も完成させてホッとしたのではないでしょうか? ★★☆ シンフォニー ニ長調 K.203(K189b) 1774年に書かれたセレナード第4番の全8楽章から4つの楽章を抜き出してシンフォニーとして演奏しています。編成はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット各2本にティンパニ、弦楽合奏という大所帯で屋外の祝典行事作品でしょうか? 第1楽章、アンダンテ・マエストーソの短い序奏に続き、アレグロ・アッサイの主部が始まります。 第2楽章―セレナードの第6楽章。弱音器をつけた弦楽器の伴奏のもとでオーボエ・ソロが吹くメロディーがとっても素敵で印象に残ります。セレナードの緩徐楽章のため陰鬱なものでなくてまさに「夜の音楽」といった雰囲気をもつものです。 第3楽章―セレナードの第7楽章。トランペット、ティンパニが加わって武骨に奏される

モーツァルト;交響曲全集完聴記(その10)

ホグウッド、シュレーダー&アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集の完聴記、今週は初期交響曲の傑作で皆さんにもよくきかれている第25番ト短調と第29番イ長調の2曲をきいていきます。 CD8 交響曲 第25番 ト短調 K.183(K.173dB) 同じくト短調にしてモーツァルトのシンフォニーの最高傑作のひとつといわれる第40番に対して「小ト短調」と呼ばれることもあるこの第25番。作曲されたのは1773年。このところきいてきた第21番から27番といった同じ時期に連続して書かれたシンフォニー群がどちらかといえばイタリア風の明るく音楽の流れの豊かさがあるものに対して、マイナーコードであることと、熱い感情表現が前面に出てきているひと際目立つ作品であります。 ただモーツァルト本人はそんなに深刻に考えていたわけではなく、当時流行していた芸術運動「シュトルム・ウント・ドランク」の感じのシンフォニーも書いてみようというノリだったかもしれませんが・・・。 編成はこんなにも緊迫感と悲壮感があるのにいたってシンプルで、オーボエとファゴットが各2本、ホルンが4本に弦楽というものです。 第1楽章ではシンコペーションが効果的に使われドラマティクに展開していきます。弦楽器が激しく動き、崩れそうになるのを他の弦楽器が止めるなど手の込んだ技法がきかれます。 私は以前この第1楽章を吹雪の中を車で走っている時きいて「なんとシュチュエーションマッチしているんだろう!」と驚きがあったことを思い出します(雪道の運転は嫌ですが。。。) 第2楽章アンダンテはそんな吹雪の夜に、暖炉のある部屋で明かりはその暖炉の炎のみという暗い、でもほのかな温もりの中でひと時の休息を取っている気がします。前の楽章からの余韻が漂い、これから先への不安といったものを抱えているみたいで本当の安らぎは感じられません。 第3楽章、笑顔の無いメヌエット。第40番のメヌエットへと通じているようにも思われます。トリオは管楽器によるアンサンブルが一息つかせてくれます。 メヌエットのメロディーを受け継ぐようにして開始される終楽章。若い情熱がほとばしっているような音楽で、例えば趣はちょっと違いますがピアノ・コンチェルト第9番「ジュノム」の終楽章みたいに熱い爆発の炎が燃えさかっています。先入観もある

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その9)

今週はモーツァルトのホグウッド&シュレーダー、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記の9回目、1773年に書かれたシンフォニーをきいていきたいと思います。 CD7 ・交響曲 第26番 変ホ長調K.184(K.161a) 休止なく3つの楽章が続けて演奏される8分程のシンフォニーで、内容も編成にもフルートとオーボエが各2本にトランペット2本も加わるので劇場作品のための曲のように思われます。流れが滞留することなくモーツァルトらしい絵葉書の裏に描かれた気の利いた絵を見ているようです。 ★★☆ ・交響曲 第27番 ト長調 K199(K.161b) このシンフォニーも全3楽章から成り、こうやってまとめてきいてくるとこの頃のモーツァルトはウィーン風のメヌエット付の4楽章形式で書いてみたり、イタリア風序曲の急緩急の3楽章でみたり、その時々のTPOに合せて仕事をしながら試行錯誤を繰り返した様子がきこえてくるような気がします。 編成は前の曲と比べるとはるかに小さく弦楽器にフルートとホルンが各2本入るだけです。 第1楽章アレグロはさわやかな流れるようなメロディー・ラインがディヴェルティメント的です。第2楽章アンダンテは弱音器をつけたヴァイオリンがアリアのような抒情的なメロディーが歌い他の弦楽器が場ピチカートで支えます。ガヴォットみたいなリズムがエレガンスで、少しロマンティックで、ウットリきき惚れてしまいます。 終楽章プレスト。フーガにより堂々と締めくくられていきます。立体的な造形は後の「ジュピター」シンフォニーに進化していく予感を伝えます。 ★★★☆ ・交響曲 第22番 ハ長調 K.162 この曲も3楽章ですがトランペットが編成に入り、第1楽章からイタリア風序曲を思わせるリズムと軽快さがあります。イタリア旅行から帰って間もなく書かれたといわれ、モーツァルトがより学習しているなぁ~と感じます。 アンダンティーノ・グラツィオーソの第2楽章はふたつの楽章の繋ぐ間奏曲風なものです。 終楽章はバロック時代の特徴的なリズムが印象的でそれに気を取られている間に終わってしまうトータル8分位の演奏時間です。 ★★★ ・交響曲 第23番 ニ長調 K.181(K.162b) やっぱり第23番も急緩急の3楽章が続けて演

今週の1曲(32)~ブラームス:セレナード第1番

イメージ
新年最初の1曲はあまり肩ヒジ張ったものではない ブラームス 最初の管弦楽作品、 セレナード第1番 ニ長調 作品11 です。 1857年、北ドイツの街、デトモルトの宮廷に赴任して間もなく、弦と管楽器のための九重奏曲として書き上げ、その後1859年にフルオーケストラ用に改作されました。 ブラームスとしてはかなり力を入れて編曲し直したようで九重奏曲版はきいた事がありませんが、明らかに大編成に書き直すにあたりセレナードというのは名前だけで、ダイナミックなシンフォニーに近いものになっています。いずれは交響曲を書くための経験ということを考えてのことでしょう。 第1楽章 アレグロ・モルト 朝もやのような弦楽器が刻むリズムの中からホルンによる第1テーマがローローと鳴り響いてきて、管楽器に受け継がれていき喜びや期待に満ちたような雰囲気になりますが、でも真面目なブラームス。それらの素材を使ってガッチリとソナタ形式で楽章構築をしていきます。その堂々とした響きをきいていると「今年もガンバルか!!」と奮起するような気分にさせられます。コーダにはゆったりとした余韻があって緊張感が解かれます。 第2楽章 この作品の中でひとつだけ短調のスケルツォ。躍動感よりも、物思いにひたって考え込むブラームスの姿が浮かんでくるような暗さがあります。 第3楽章 アダージョ・ノン・トロッポは唯一の緩徐楽章で作品の中軸となる音楽といえるでしょう。鳥の声や風の音、狩猟ホルンや牧童のフルートが鳴り響いてくる広々とした田園風景が浮かんでくるようなメロディーが15分近く続くと知らないうちにウトウトしてきます。 第4楽章 バロック時代へのパロディとも慈しみとも思えるようなものが伝わってくるメヌエット。また、第3番交響曲の第3楽章に共通した哀愁みたいなもの、同じニ長調による第2番交響曲と似た空気がここだけでなく全曲に通っています。 第5楽章 ホルンが堂々と響く武骨なスケルツォ。きっとこの基になっているのはベートーヴェンのシンフォニーのスケルツォにルーツがあると感じられることでしょう。 第6楽章 ロンド・アレグロの終楽章は活発なリズムがたくましさを与えます。第2主題でここにきてはじめてセレナード風な楽想がきけます。またホルンが目立って吹きまくっていてブラームスのホルン好み!?が反映されています。