投稿

ラベル(完聴記)が付いた投稿を表示しています

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その11)

ショスタコーヴィチの交響曲完聴記、ついに第15番となりました。 交響曲第15番 イ長調 作品141は1971年にわずか2カ月、それも心臓を悪くしていた病床で完成されました。初演は翌年1月に息子のマクシムの指揮によって成されました。 第1楽章  作曲者は「死」を意識して書いたと思われますが、実にひょうげています。ロッシーニの「ウィリアム・テル」の引用にはじまり、マーラーの交響曲の行進曲をパロディにしているのではないか? 最後の交響曲とはいえ、マーラーの交響曲第9番よりもショスタコーヴィチの交響曲第9番の精神を感じます。 第2楽章  金管楽器のコラール風のメロディーが追悼のようで、それに続くチェロのソロも暗い。そこに応答するフルートが登場ー次第に葬送行進曲を思わせる空気のなか、突然、感情の爆発みたいな、怒りともとれそうな全楽器による死の入口を見せるかのようなクライマックス!その入口が静かに閉じるようにして終わりに向かっていきます。 第3楽章  ショスタコーヴィチ流の諧謔味にどことなく死臭が漂うアレグレット。ヴァイオリン・コンチェルト、シンフォニア・コンチェルタンテを思わせる軽さがあり、ここでも第9番交響曲との類似性を感じます。 第4楽章  いきなりワーグナーからの引用による金管合奏ーしかし直ぐに弦楽合奏を中心とした流れるメロディーが始まります。まるでセレナードのようなーシンプルでありながらも「音楽」を感じさせる場面であります。 この延々と続く(多少の入れ替わりや変化もありますが)音楽からは死を先送りにしたいショスタコーヴィチの姿も見えてくるような、、、 でも中間部で運命の時が迫るようにして、第15番の交響曲では滅多に使用しないトッティが炸裂します。 終わりに近づくと木製打楽器部隊による合奏は死へ向かって行進曲を続けていきますーついにショスタコーヴィチ自身も交響曲にもピリオドを打つかのようにして、遥か遠くに消えて全曲を閉じます。 そこには何ともいえない寂しさ、空虚さが残ります。 楽器編成はそれなりに大きいものの、全奏でバリバリやるところが極めて少ないので室内楽的な印象を受けます。枯淡の表情をした、そう!ベートーヴェンの第16番イ長調のカルテットにも共通するシンプルな顔つきをして奥深い響きを持った枯山水庭園みたいなシンフォニー。 演奏して

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その10)

ショスタコーヴィチの交響曲全曲をきいていく企画もいよいよ残り2曲、演奏はルドルフ・バルシャイ指揮のWDR(ケルン)交響楽団です。 ソリストはソプラノがアラ・シモーニ、バスがヴラディーミル・ヴァネエフ、コーラスがモスクワ合唱アカデミーとケルン放送合唱団です。 第14番 ト短調 作品135 「死者の歌」 1969年に作曲、初演されたこの交響曲、初演者はバルシャイ指揮のモスクワ室内管弦楽団でした。また、この曲には不思議なエピソードがあって、リハーサルに臨席していた共産党幹部のアポストロフが心臓発作で倒れて病院に搬送されたもの、一月後に死んでしまった。アポストロフはジダーノフ批判の時、さかんにショスタコーヴィチを批判した人だったらしく、祟られたのでは?と噂されたらしいです。 曲は2人の独唱者とコーラス、オーケストラは弦楽器と打楽器のみで、管楽器を含まないという特殊な編成で、楽章数も11もありながら演奏時間は約50分のオーケストラ伴奏付き歌曲集といった顔つきをした交響曲です。 歌詞は前作と異なりちゃんとした⁉︎ロシア、フランスやドイツなどの詩人のテキストに付曲しています。 第1楽章 「深いところから」  テキスト  ガルシア・ロルカ(スペイン) 冒頭から寂寥感があり冷え冷えとした感覚が素晴らしい。その不安定で血の通わない空気感がまるでこの交響曲の序奏・導入部になっているかのようです。 第2楽章 「マラゲーニャ」 テキスト  ロルカ バルトークにも似た乾いたアレグレットのリズム。スペイン人のロルカの詩に付曲していることもあってかカスタネットが鳴り響く。しかし、それはラテンの陽気さではなくて死の舞踏であることが印象付けられます。 第3楽章 「ローレライ」  テキスト  ギョーム・アポリネール(フランス) あの流れるような民謡ローレライではなくて死臭の漂う二重唱。 第4楽章  「自殺」   テキスト  アポリネール 独奏チェロ、シロフォン、チェレスタの音色が恐ろしさと同時に美しさを感じる音楽で、作品の中でも印象に残る楽章です。 第5楽章 「心して」  テキスト  アポリネール 前楽章からアタッカで始まりますが、ズドンコズドンコとというリズムが特徴的です。マーラーを思わせるこっけいでありながら悲しさもある行進曲で、出征し戦死した弟を想う姉の歌で

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その9)

今週は第13番 変ロ短調 作品113 「バビ・ヤール」 演奏は例のごとくバルシャイ指揮のWDRシンフォニー・オーケストラ。 第11番、第12番で革命讃歌とでも表現したいようないかにもソ連政府の喜びそうなシンフォニーを発表した次にきたのは人種問題を扱ったものでした。 表面的には人種差別はないとしていたソ連の暗部であるユダヤ人問題をエトフェシェンコという詩人が書いたテキストを持ち込み、バス独唱と男声合唱も動員したカンタータ風の作品。 そのため歌詞の改変要求をはじめとした政府の圧力などゴタゴタがあったものの、1962年12月に初演されました。 第1楽章  バビ・ヤール 「バビ・ヤール」とはキエフ近郊の地域の名前で、ウクライナに進行したナチス・ドイツ軍がそこにユダヤ人をはじめとしていわゆる《アーリア人》から見ると排除すべき対象とされた人種を大量殺害した場所だそうです。 冒頭から重苦しい低弦が抑圧された音を出して暗くて、不気味で、恐怖も感じます。ショスタコーヴィチマニアの大好物な楽章なんじゃないかぁ〜? バス独唱も野太い声で合唱とやるせない怒りと告発を歌っていて、ファシスト=ナチスだけじゃないことを示唆しています。でも、詩がアンネ・フランク云々から自分はユダヤ人では無いと言ってみたり訳分かりません。 第2楽章  ユーモア 前の楽章を忘れたようにひょうげた明るく活発な音楽で、その裏には風刺や皮肉が効いおり、街のあちらこちらで市民たちがお喋りを交わしている横でヴァイオリンやクラリネットを奏でている音楽師がいるような絵が浮かんできます。ここはリヒャルト・シュトラウスのティル・オイレンシュピーゲルが頭をかすめる場面のように感じます。 第3楽章  商店で 再びアダージョに戻って、品物が無い商店前に寒さに震え行列をつくる主婦たちを描いている。確かにこういった風景を小さい頃、ソ連のニュース映像で見かけて不思議に見えたことを思い出しました。 寒さに震える様子を描いているのか、カスタネットの乾いた響きが執拗に繰り返されるところが不気味であります。 でも詩人本人はその女性たちを横目に見つつ、そのぼったくり商店から、ペリメニ(ロシア風ギョウザ=当時のロシアのファストフードみたいなもの)を買っていく。それに対する後ろめたさかー行列する主婦を「女神」と讃えつつも自分

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その8)

今週の投稿は交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」です。 前作の第11番に続きロシア革命を描いた第2作めといえるもので、1905年を書いたのだから1917年も書こうという意気で作曲したのだろう。 第1楽章 「革命のペトログラード」 旧サンクトペテルブルク、後にレニングラードとなった都市。低弦群が奏する導入部の暗いこと!主要部になるとアレグロになって闘争的な音楽でクライマックスをつくる。レーニンを描いた作品を書きたかったといわれるショスタコーヴィチ、ここで「レーニン讃歌」にしているのだろうか?躍動的というか高揚感というかシンバルなどの打楽器から金管楽器のあまりの激しい仕事ぶりにめまいがしてきそう… 第2楽章 「ラズリーフ」 密かにロシアに入国したレーニンが潜伏したペトログラード北部の湖の名前で、そこで革命のプランを練ったようで、音楽もそれを連想するように低弦が静かに暗い部屋でひとり物思いに沈むレーニンの姿を想像できる音楽です。中間部でフルートとクラリネットが印象に残るメロディーがあります。そこにふとトロンボーンが荘重に響きますが、これは前に出てきたテーマの再現みたいで、革命へと歩みを進めるレーニンの心情を感じさせるものです。 第3楽章 「アウローラ」 ネヴァ河から冬宮へ砲撃を行って、革命開始の合図を送った巡洋艦の名前で(でも実際に撃ったのは空砲)日本海海戦の数少ない撃沈されなかった艦です。 ゆっくりと姿を現した艦が目の前に現れるようにして音楽がまとめられていき、ティンパニや打楽器が刻むリズムが砲撃のテーマと思われます。 冬宮を占拠するところはまたハデハデな演出。 第4楽章 「人類の夜明け」 大昔のプロレタリア革命の人が平気で名付ける赤面しそうなネーミングの終楽章。 でもそれがこのシンフォニーのいちばんのテーマでしょう。第11番の終楽章は「警鐘」となっていて革命の道未だ成らずと、亡くなった人への悲しみ、弾圧する政府への怒りのうちに終わったものが、この第12番では完結した事を実感させます。 今までのテーマが再現されて階段を登るようにしてクライマックスへと到達させますー 個人的にはこうノーテンキに万歳万歳とばかりに祝砲と讃歌のうちに大団円という音楽には違和感を持ちますが、ここがショスタコーヴィチの魅かれるところで、職人技なの

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その7)

とっても投稿が滞っていましたが(⌒-⌒; ) ボチボチとアップしていきたいと思いますのでよろしくお願い致します。 まずは途中までになていたショスタコーヴィチの交響曲完聴記からー 演奏はルドルフ・バルシャイ指揮 WDR交響楽団 交響曲第11番 ト短調 作品103 「1905年」 1957に初演された作品。 第10番がスターリンが死んで良かった!といった気分の伝わってきた作品でありましたが、このシンフォニーは体制迎合しました。という顔つきです。 1905年1月に起きたロシア革命の始まりといわれる、皇帝に請願しようと集まってきた民衆を軍隊が発砲してその数1000人を殺害したといわれる「血の日曜日事件」をモチーフとした交響曲です。 第1楽章「宮殿前広場」 圧政に耐える民衆を思わせる重く暗い始まりに革命歌も引用されて不穏な空気が漂います。冬の雲が厚く覆った冬空のもとサンクトペテルブルク王宮広場に整列した近衛兵の前にはボロボロのコートを着た民衆がゾロゾロと集まって来る様子がまるでドローンで俯瞰ショットを見せたり、それに組み合わせ地上カメラが民衆や近衛兵の顔や姿を映し出すなどリアルな描写が映画のようです。 第2楽章 「1月9日」  緊張感の高まる中、音楽が不気味に響き、突如暴力的に鳴り出す。 皇帝への請願する民衆への軍隊の攻撃が始まった事が分かります。ライフル射撃で倒れる人、騎兵のサーベルが振り下ろされる人、老いも若きも、男女の関係なく行われた無差別殺戮の様子が大オーケストラを使い描かれます。 ひと通り鎮圧が済むとそこには白い雪が赤い血で染まり、死体が折り重なりゴロゴロ転がっているゾッとする光景!ここも非常に描写的であります。 第3楽章 「永遠の記録」  倒れた人々への祈りのアダージョで、主要テーマは革命歌からの引用らしいです。始めはヴィオラがメロディーを奏して、他の弦楽器はピチカートによる静かな音楽がきかれます。そのテーマを楽器を増やして展開されて盛り上がっていくのですが、やや映画音楽寄りのつくり方のような… 第4楽章 「警鐘」  激しい動きに打楽器がいかにもショスタコーヴィチっぽいリズムをつけてまだ闘いは終わっていないとばかりに意気をあげる。 色々なテーマがでてきて曲はクライマックスを迎え革命精神は倒れないぞ!と訴える。 第1楽章の主題

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その6)

イメージ
無茶苦茶暑い日が続きますが今週も頑張ってショスコーヴィチの交響曲完聴記、今週は第9番と第10番です。演奏は例によってバルシャイ指揮WDR交響楽団です。 交響曲第9番 変ホ長調 作品70 交響曲第9番といえばベートーヴェン以来、その作曲家の最高傑作が書かれると相場は決まっていました。それもショスタコーヴィチの場合は第2次世界大戦の戦勝を祝うということで手掛けられました。当然誰もがベートーヴェンのあの「第九」のような壮大な音楽を想像しました。しかし、発表された交響曲は軽くシンフォニエッタという形式できました。 その肩透かし戦法!?により運命の神様もあきれ返ったのか交響曲第9番を書く死ぬというジンクスからは逃れてこの後まだ第15番まで交響曲を完成させました。でも、ソ連当局からは睨まれることになりました。 第1楽章、序奏なしでいきなり軽くスキップしながら口笛吹いて街中を歩いているような―ソビエト政府が対ドイツ戦=大祖国戦争の勝利を期待した魂胆を見事に裏切ってくれたショスタコーヴィチ流のペロッと舌を出しているみたいな音楽です。 第2楽章は静かで落ち着いた佇まいの緩徐楽章。その室内楽的な響きは戦勝とは真逆の精神といえるでしょう。でも、乾いたパサパサ感はショスタコーヴィチらしいです。 第3楽章、ここにきて音楽は激しさを加えて金管、小太鼓が軍隊を連想させるような音を出します。それは戦争を思い出すような表現! 続く第4楽章は次の第5楽章への橋渡しのような役割で新しい闘争の前の前奏曲といった不安で陰鬱なもので、ファゴット・ソロに導かれてフィナーレに入っていきます。 第1楽章の楽想が冷静になったみたいな音楽で悲しさが付きまといます。でも急に終わり近づくとテンポ・アップして熱狂の坩堝に放り込まれます!これが戦争に勝利してバカ騒ぎ政府の役人たちを揶揄しているように白々しくて最後は「やってられないよ!」もしくは「つきあいきれないよ!」とばかりにパッと曲を閉じます。 この交響曲は決して軽い=傑作ではないというわけでなく、むしろ彼の持っている手法がギュッと濃縮された作品といえるでしょう。 交響曲 第10番 ホ短調 作品93 第9番の交響曲でシベリア送りになりそうになったショスタコーヴィチ。批判を避けるように映画音楽やオラトリオ「森の歌」といった政府

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その5)

イメージ
ショスタコーヴィチの交響曲完聴記、今週は第8番ハ短調作品65です。 演奏は例によってバルシャイ指揮WDR交響楽団です。 第7番が映画音楽風なスペクタクルの描写音楽に近かったものに対してこちらはより精神的にも深い音楽です。 1943年のドイツ軍の夏季攻勢(ツィタデレ作戦)が失敗し、米英連合軍のシチリア上陸作戦の成功、ソ連の冬季反攻作戦が行われ、イケイケムードの中で初演された交響曲。しかし、この作品からはそんな雰囲気はきこえてきません。 全曲の三分の一を占める第1楽章(このディスクでは27’27”)のほとんどが緩徐楽章ともいえるもので、冒頭の苦痛に満ちた心の奥底からの叫びのようにして奏せられる低弦のメロディー。とっても暗くて精神的な音楽でいいねぇ~!と感じます。こういったの好きです。 その暗さを時のソビエト政府は非難したと言われますがこちらの方がはるかに素晴らしいです! 第7番のようなentertainmentの勝る交響曲を書いた後にこの魂の音楽ともいえる第8番を書いてしまうのだからやっぱりショスタコーヴィチは不思議な天才であると思います。 第1楽章の中盤で突然マーチのような音楽が入ってきますが、恐怖に怯える人達(ショスタコーヴィチ自身も含めて)を描いているようです。それが静まると弦楽器のトレモロの上でイングリシュ・ホルンの長いソロが始まりますが、そこに広がるのは戦争で荒れ果てた大地があり、戦争とは何ら生産活動の無いただの破壊でしかないという虚しさを伝えています。 第2楽章はおどけたピッコロやファゴットといった木管楽器がソロイスティックに活躍するスケルツォ風の性格を持つ楽章ですが、どことなく暗い影がついて回ります。 第3楽章は規則正しい弦の刻むリズムから始まるのですが、この急迫感はソビエト軍のドイツ軍に対する反攻作戦の戦場を描いている設定でしょうか?その弦の刻むリズムは戦車のキャタピラ?小太鼓は機関銃の音?突撃する歩兵達?その地獄のようなゾッとするような恐怖が頂点に至るとそのまま第4楽章に入っていきます。それは一転して葬送のための音楽といえるラルゴで、第1楽章のイメージが回帰したような楽章です。 木管のハーモニー吹奏により始まる第5楽章、戦闘が終わり平和が訪れたかのように冷たかった空気が初春の風に変化したようになります。しかし、

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その4)

イメージ
バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団によるショスタコーヴィッチの交響曲全曲試聴シリーズの今回は第7番ハ長調作品54「レニングラード」をききます。 第二次世界大戦におけるドイツ包囲下にあるレニングラード市内で作曲され、第7番・第8番・第9番は戦争三部作ともいわれます。 1942年に初演されるとともにイギリスやアメリカなどにおいてもファシズムと戦うための戦意高揚音楽のような大々的な扱いを受けていたそうです。その好評ぶりに当時アメリカで不遇をかこっていたバルトークは嫉妬してか皮肉たっぷりに「国家の奴隷になってまで作曲家するヤツは馬鹿者」みたいなコメントを残しています。 各楽章には戦争を意識させる「戦争」「回想」「祖国の荒野」「勝利」といった副題が付けられていましたが初演時には全て削除されたそうです。 第1楽章、ショスタコーヴィチらしい?明快で分かり易い始まり、いかにもききて(ソ連共産党)を騙すためのテクニックのように感じます。田園的で確かに耳になじむ美しいメロディーではあります。そこに侵略のテーマといわれるメロディーが小太鼓によって示されますが最初フルート・ソロによるのであまりにものんきにきこえて―平和に暮らすところへ遠くからドイツ軍がやってくるという表現なのかもしれないですが、何とも危機感が少ないものです(それも12回!も繰り返される)あまりにも開放的にきこえるのでまるでドイツ軍が解放者!?では?と思ってしまいます。 そのテーマが次第に牙をむいて侵略が始まります・・・軍靴に踏みにじられる大地、銃撃、ダイナミックな音響に圧倒されます。その後しんみり調の音楽、戦禍による人々の嘆きを歌っているようですが、明日への希望を与える感じがなんとも予定調和的な印象で全体的なストーリーが読めてしましそうです。 第2楽章、ひっそりとしたオーボエ・ソロの情感あるメロディーからはじまります。そこへクラリネットが素っ頓狂な―高音で奇声を発しているように吹かれて、ききてが驚いているところにスケルツォを思わせる動きが戦争を回想しているように思われ、嫌な記憶が駆け巡った後に再び冒頭の静けさが戻って来て楽章を閉じます。 第3楽章、弦楽合奏によるエレジーは第5番・第6番の緩徐楽章を思わせ、木管楽器のハーモニーはコラールのように響く長大な楽章(この演奏では約18分) 寒々として広々

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その3)

イメージ
ショスタコーヴィッチの交響曲をバルシャイ指揮ケルン放送交響楽団による演奏で順番にきいていくシリーズの第3回。 「革命」 の副題でも呼ばれることがある 交響曲第5番ニ短調作品47 からきいていきます。 彼の作品中でも代表作=傑作という扱いを受けている交響曲ではありますが、今回こうやって第1番から順にきくと同時にショスタコーヴィッチの生涯についても調べていると傑作化ということに関しては個人としては「保留」という意見になりました。 この作品が発表された時期というものを考えてみると、ショスタコーヴィッチの地位は極めて危うい時のもので、発表する作品、作品がソ連当局により「非社会主義的」と断罪されていました。 ちょうどスターリンによる大粛清時代とも重なり、前衛的な交響曲第4番も初演直前に取り下げるという経緯もありました。 この時代のソ連において当局に睨まれるということは=社会的失脚を意味して、「死刑」もしくはシベリアかどこかに連れ去られてしまうという極めて危険な状況下であったということです。 そういったことでは「生きていくために書かれたシンフォニー」と言ってもいいかもしれません。ですから第1番から第4番からきいてきた耳にはちょっと腰が引けているように思えます。 彼独特のリズムや打楽器攻勢、金管楽器の咆哮、アイロニーに満ちたフレーズが控えめで、バランス重視の構造、分かり易いクライマックス設定にきこえます。それが当時のソ連当局をダマシて現代の我々の耳もだましているのでしょう。 第1楽章の冒頭は言うまでもなく第5番=ニ短調、そう!ベートーヴェンのそれ「運命交響曲」を明らかに意識してテーマをつくっていると気付く、かなりケレン味がある弦楽器によるカノンです。 第2楽章間奏曲風なスケルツォ。マーラーっぽい香りがする始まりから次第にリズムや管楽器にショスタコーヴィッチらしいひょうげたフレーズが登場―しかし暗い影が常に付きまとっています。 第3楽章このラルゴにこそショスタコーヴィッチの交響曲第5番の存在価値があるといっていいのではないでしょうか?そのくらい美しくて沈痛な響きに満ちています。 とめどなく流れる涙のようです。それをグッと怒りなのか痛みなのか、それともその両方なのか?をこらえているみたいです。 金管はすべてお休みで弦楽器―それも弦楽五部をさら

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その2)

イメージ
ショスタコーヴィチの交響曲全曲完聴記、今週は第4番をきいていきたいと思います。 ショスタコーヴィチの交響曲の傑作という人もいるくらいの完成度と長さを誇ります。この曲の特徴は1935年から36年の約9か月をかけて手掛けられ、ショスタコーヴィチ本人が「自分の仕事の集大成」というような言葉を残しているようにかなり意気込んで取り掛かかって、途中破棄された断片までが「交響的断章~アダージョ」としても残っているように試行錯誤、難産の末に完成されたものの、リハーサルも最後になったころに突如スコアが引込められて1961年に初演されるまで封印されてしまったということです。 それはなぜか?当時スターリン治政下の大規模粛清の嵐が吹き荒れていて「赤軍のナポレオン」と呼ばれたトハチェフスキー元帥までも処刑されるという「赤軍大粛清」事件も発生した時で、その関係してショスタコーヴィチ自身まで当局の事情聴取まで受けていて、その前の1936年に初演したオペラ「ムツェンスク群のマクベス夫人」やバレエ音楽が批判の対象になっていてこともあり、彼自身慎重になっていたといわれています。 まあ、長い話をくどくど書いていてもしょうがないので曲について書いていきます。 すれっからしのショスタコーヴィチ・ファンが泣いて喜びそうな音楽が第1楽章からきこえてきます。打楽器はガンガン鳴り、色々なモチーフが出てくるは、金管も吠える・・・マーラーのカリカチュア?オマージュ?賛美?また、リズムがマーラーの交響曲第4番の冒頭の鈴の音にも似たものが一瞬顔をだしますが、これもそうでしょうか? 中間部では狂ったような激しいフーガが登場しますが切迫感があって「ヤバイ」といっていいくらいで、本当にショスタコーヴィチは「狂」の面を感じさせる作曲家であると感じる瞬間です(それが本人が計算ずくでやっている可能性はあると思いますが・・・) 第2楽章でもマーラーではよくきかれる「レントラー」による第1楽章と終楽章である第3楽章を繋ぐインテルメッツォのような形の楽章です。 ショスタコーヴィチにしては!?意外とマジメ君で書いてあるように思うが少々ヘンテコなズレタたメロディーが出てきます。 終わりの所でポキポキとやるフレーズがでてきますがその乾いた音の響きは墓地で踊るガイコツのような不気味さでゾッとします! 終楽章。ここでもラ

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その1)

イメージ
ことし2015年は旧ソビエト連邦の作曲家 ドミトリー・ショスタコーヴィチ が1975年に亡くなって40年になります。 個人的にはショスタコーヴィチの積極的なききてではなくて、第1番のピアノ・コンチェルト、オペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、一部のカルテット・・・シンフォニーも第8番・第10番そしていうまでもなく第5番くらいなものです。 これを機にまず取っ掛かりやすそうなシンフォニーからきいていこうと思います。 ショスタコーヴィチは交響曲を生涯に15曲書いており、どの曲も興味深いものがあり、彼の生きた時代のソビエト連邦の複雑な政治状況とリンクしているところもあって、そういった暗号やメッセージをきき取ろうとするのも面白いですし、たくさんの打楽器やピアノまで動員した大編成のオーケストラ・サウンドをきくのも面白いです。 演奏はベーシックなものとして評価されている ルドルフ・バルシャイ が ケルン放送交響楽団(WDR交響楽団) を指揮したものになります。バルシャイは1924年に旧ソビエトに生まれ、ショスタコーヴィチとも交流があって第14番の交響曲を初演を担当したり、弦楽四重奏曲を室内オーケストラ用にも編曲しています。1970年代に亡命後から亡くなる2010年までに多くのオーケストラに度々客演もしていて、何度か来日もしているので生演奏に接した方もいるのではないでしょうか? これから第1番から順にきいていきたいと思います。 交響曲 第1番 ヘ短調 作品10 第1楽章、ミュートしたトランペットとファゴットによる軽快とも不気味ともいえるテーマが印象的で、既にショスタコーヴィチらしいあのせかせかしたリズムの行進曲風の旋律がきこえます。 展開部ではマーラーやストラヴィンスキーをミックスしたみたいな音楽がきこえてきます。 第2楽章は動きの速い弦楽器・管楽器がスケルツォのようで、ピアノ・ソロが登場して皮相的な感じを受けます。 第3楽章は緩徐楽章レント。もの悲しい音楽。重みのある音が深く心に残ります。ロマンティックなところと葬送行進曲による暗さが同居しています。 そのままアタッカで突入する終楽章の始まりは前楽章のレントの寒々とした空気が残っています。アレグロ・モルトに移っていくと感情が高まったように爆破、しかしとつっぜん静かになってヴァイオリン・ソ

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その18)

イメージ
はホグウッド&シュレーダー共同指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集完聴記、全71曲、CDにしてて全19枚!発売された1980年代にはモーツァルト交響曲演奏のエポック・メイキングだったディスクをホグウッドの追悼企画として視聴記録を開始して18回め!、そして全投稿数もちょうど100回!!パチパチパチ(拍手) その区切りに私の大好きなモーツァルトで完聴企画が終了することに偶然とはいえ運命を感じます(^_^;) CD19 交響曲 第40番 ト短調 K.550 こちらが多く演奏されるクラリネット入りのヴァージョン。それにより音楽としては情緒的で音色にも厚みがあるのでロマン派の演奏解釈を継承していた20世紀では主流でした。現在もそうではないでしょうか? 恐らくモーツァルトの友人でクラリネットの作品を書いてもらっているアントン・シュタードラーがオーケストラに参加するためにクラリネット・パートを書き加えたといわれています。 以前は後期三大交響曲は作曲動機や初演についても不明とされていて、お金もなく作曲依頼もなかったモーツァルトが芸術的欲求を満たすためだけに書いた3曲の交響曲などと半ば都市伝説風な風に語られていましたが、やっぱりモーツァルトも人間です、収入や演奏会の見込みが無ければ作曲はしなかったでしょう。現在の研究ではモーツァルトの生前1791年まで何回か演奏されたといわれています。 わざわざクラリネット・パートを書き加えていたということは実際に演奏されたという証拠のひとつではないでしょうか? 第1楽章では追い立てられた人間が第2楽章ではやっと一息ついたのもつかの間、展開部ではフト苦しみを思い出し、また忘れようとしても思い出してしまっているようなイメージで、必死に救いを求めるように祈っているなフシが繰り返し出てきます。 第3楽章のメヌエットのトリオではクラリネットが甘美な音楽として吹かれます。 終楽章、誰かに追い立てられているのか?それとも自らを奮い立たせて前に進んでいるのか? 木管楽器の独立した扱いのフレーズは見事で、当然ながらクラリネットも目立ってきこえてきます。 「ゲージュツはバクハツだ」的音楽 で当時、モーツァルトの創りだす音楽にしだいについていかれなくなったウィーンの聴衆の反感にも屈せず自身の音楽表

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その17)

ホグウッド(コンティヌオ)とシュレーダー(コンサート・マスター)の共同リードでアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックが演奏するモーツァルトの交響曲全集の完聴記、今週はいよいよ後期三大交響曲に突入します。 今回はその第17回。第39番と第40番の第1稿―皆さんもご存じの通りクラリネットが編成に入っていないヴァージョンですね。をきいていきたいと思います。 CD15 交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 第1楽章。ファンファーレのようなリズムをもった奥深いアダージョの序奏。崇高な響きに満ちて、それは変ホ長調(晩年のオペラ「魔笛」や弦楽五重奏曲K.614もそう)という調性とフランスのオーケストラのために書いた第31番「パリ」やセレナードの改作である第35番「ハフナー」といった特殊な場合でしか加わらなかったクラリネットを編成に含むための効果と思われます。(第40番の改訂によってクラリネットを加えているので例外といえます) 主要部に入っていくときのうっとりするような推移。展開していく音楽は表面的な優雅さだけでなく、モーツァルトの創作の充実が新しいステージに入っていることを実感させるもので、大袈裟ですがロマン派のシンフォニーにも通じていく様にも感じる瞬間があります。 第2楽章は美しい歌の世界としか表現のしようのないほどの透明感!ドラマテックな所と嘆き節が見事に融合させています。モーツァルト生涯最後の年に書かれたピアノ・コンチェルト第27番やクラリネット・コンチェルトなどでもきかれる深まっていく秋のようなはかなさがあります。 第3楽章、K.602やK.605のドイツ舞曲にも似たレントラー風のメヌエットです。またここではクラリネットのデュエットがソロイスティックに活躍してききどころのひとつです。 第4楽章、ハーモニーの美しさ、重厚さを持ちながらも軽快さを失っていないことに感心してしまします。細かい音の粒が固まり、キラキラと光を帯びて輝いているみたいです。コーダにかけて繰り返されるメロディーは勝利の凱歌を挙げているようにきこえ、次の第40番が感傷的な響きなので、後期三大交響曲をひとつのセットとして考えた場合、この第39番は起承転結でいうと「起」=「序曲」ともいえるシンフォニーと思います。 ★★★★★ 交響曲 第40番 ト短調 K.550 (第1

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その16)

ホグウウッド&シュレーダーとアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記、いよいよ後期三大交響曲まで目前です。その前にまだ残っている落穂拾い的なシンフォニーと都市名の付いた「パリ」「プラハ」曲をきいていきたいと思います。 CD14~ 交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 【第1稿】 1778年のフランス旅行の時にパリで書かれ、初演された曲。直前に立ち寄ったマンハイム楽派(当時、ドイツ南西部に位置したこの地には領主の趣味もあって大規模オーケストラがあって、シュターミッツ親子やカンナビヒ、リヒターといった作曲家がソナタ形式とかの古典派音楽の基礎をここから発信していたメッカであったといわれ、ここで当然モーツァルトも就活をしましたが失敗しました)からの影響、そしてパリの聴衆の音楽趣味を考えて堂々ととして活発に動き回る弦と管が花火をドカンと打ち上げたみたいにきこえてきて、ききての度肝を抜くパワーをもった第1楽章。でもそういった初演を成功させなければならないという意識が先行してか、モーツァルトの音楽としては少し無理をしているというか、肩ヒジを張って書いたようにもきこえます。 第2楽章。このアンダンテは後にこの曲の依頼主でコンセール・スピリチェルの支配人、ル・グロという人が長すぎるとイチャモンをつけて差し替えられることになるのですが、これはその前の初稿による演奏です。優美なところと聴衆を飽きさせないように所々でスパイスを仕込んだよく考えられた楽章―ハイドンもこの街の聴衆のために6曲の「パリ交響曲」を書いていますが、それに通じる華美なところが感じらるような気がします。 このシンフォニーはメヌエットを含まないので次が終楽章になります。ピアノから弱く始めてから一気に爆発させるという手法で、これはモーツァルトがパリの聴衆を驚かすためにやったらしく、当時パリではシンフォニーのフィナーレはフォルテで始まるのが習慣だったのをその逆をやったみたということを本人が父宛ての手紙で書き残しています。ユーモアが光り、華麗な音楽です。 ★★★★☆ CD16~ 交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 【第2稿】 こちらは先の一件により差し替えられた第2楽章アンダンテによる演奏で、両端楽章は特に変化はありません。

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その15)

今週はモーツァルトのホグウッド&シュレーダー、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記の15回目、後期六大交響曲ともいわれる最初の第35番「ハフナー」&第36番「リンツ」をききたいと思います。 CD13 交響曲 第35番 ニ長調 K.385「ハフナー」 (第1稿) 最初に「第1稿」??「ハフナー交響曲」にそんなにヴァージョンがあったことはこの全集をきくまで知らず、「ハフナー交響曲」といえばあの「ハフナー交響曲」でしょう!と思ったら、皆さんご存じの通りこのシンフォニーはザルツブルクの名家ハフナーさんの貴族就任を祝って書かれたセレナードが原曲になっていて、その状態を復元ししてみました的発想で編成からフルートとクラリネットを外して、入場用として作曲されたK.408-2(385a)のマーチを演奏してから交響曲へ入っていく形をとっています。 当然、フルートとクラリネットが無い分”あれっ?”と感じる響きで厚いゴージャスな音をききなれた耳には不思議にきこえます。第2・3楽章には元からお休みなので問題ないのですが、ダイナミックな音が要求される両端楽章ではやっぱり物足りないような気がします。 でも、終楽章の表現力の大きさはモーツァルトの充実ぶりがきこえてきて、いつきいても心が躍ります。 ★★★★☆ 交響曲 第36番 ハ長調 K.425 「リンツ」 第1楽章アダージョの序奏、少し影があって後の短調作品にも通じるデモーニッシュなものを一瞬受けることがあります。アレグロ・スピリトーソの主部に移り、モーツァルトらしい流れていく様な音楽―それがただきき流されるだけでなく、耳にしっかり入ってきます。 第2楽章はささやきかけてくるような優しさがあるのですが、当時の交響曲の緩徐楽章としては珍しくトランペットとティンパニが入るので重厚感があります。 第3楽章のメヌエットでのトランペットのファンファーレが遠くの城壁から響いてくるような情景が浮かんできます。 終楽章はリズミカルで活発な音楽なのですが、弦だけで繋いだり、弦と管で静かに繋いで次にフォルテで全楽器が加わるみたいな綱渡りをみているようなスリリングな橋渡しと、その落差が楽しいです。奏者にしたら自分が失敗したら流れがストップして台無しになってしまうというストレスの中で演奏しなければならない

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その14)

ホグウッド=シュレーダー指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集の完聴企画も14回まできました。 CD12 交響曲 第33番 変ロ長調 K.319 1779年にザルツブルクで書かれたシンフォニー。前後の第32番、第34番などと同様に当初は第3楽章にメヌエットを含まないものでしたが、後にウィーンで演奏する機会があったのでしょう、メヌエットを加えて4楽章のシンフォニーとして伝わってきていて座りがいいためか、モーツァルトの交響曲をたくさんレパートリーにしていない指揮者も昔から取り上げています。例えばクレンペラーやセル、ヨッフム、カラヤン。近年ではアバドやムーティ、そしてあのクライバーまで!(そういえば父、エーリヒ・クライバーにも録音があったと思いますが) 第1楽章、第32番、第34番がトランペットやティンパニを編成に含み、祝典的で劇場型の音楽だったのに対してこちらはオーボエ、ファゴット、ホルン各2本に弦楽というシンプルなため愛らしくて、さわやかな流れのメロディーラインが素敵です。また、ジュピター音型といわれるモチーフが出てきます。まあ、第1番のシンフォニーにも使っているので年少より馴染みのものだったらしく、意図してやったわけではなく、、他にもあちこちの作品で使用されているので無意識のうちに出てくる身近なものだったのでしょう。 第2楽章、よく歌うアンダンテ・モデラート。俗にモーツァルトの「田園交響曲」なんて意味の分からない俗称を解説書の類で書かれていますが、伸びやかな旋律のこの楽章をきいているとまんざら的外れというわけではないとも思います。 第3楽章、きりっと引き締まっていて、後から付け加えられたという先入観できくせいかも知れませんが充実したメヌエットであると思います。 第4楽章はキビキビと楽しい旋律が湧き上がってきて心が躍ります。 全体としてとても親密で親しみ易いシンフォニーで、さすがに後期の作品と比べればややクラシカルな形式で書かれた交響曲という印象はありますが、名人による逸品といえるのではないでしょうか? ★★★★☆ ・シンフォニー ニ長調 K.320      セレナーデ第9番「ポスト・ホルン」の交響曲稿 第33番の交響曲が書かれた直後に作曲されたといわれるセレナード第9番「ポスト・ホルン」

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その13)

ホグウッドとシュレーダーの共同リード、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集企画の完聴記、今週は第13回になりました。 CD11 ・シンフォニア  ハ長調    歌劇「羊飼いの王様(牧人の王」序曲 K.208(K.102+K.203C) 1775年にザルツブルク初演されたオペラの序曲にアリアとフィナーレを加えてシンフォニーの体で演奏している曲です。 冒頭の和音からリズム感がとっても良くてヨーゼフ・ハイドンのシンフォニーみたいです。中間部のホルンのメロディーもハイドン風です。フィナーレも躍動感があります。 ★★☆ ・シンフォニー  ニ長調  K.250(K.248b)     セレナード第7番「ハフナー・セレナード」の交響曲稿 1786年に作曲されたこのジャンルでの傑作といわれるセレナードで、第1楽章、第5,7,8楽章を抜き出してシンフォニーとして演奏しています。また、他の第2,3,4楽章はヴァイオリン・コンチェルトとしても演奏できるようになっている一粒で二度おいしいセレナードなのです。 第1楽章、ザルツブルクの名門ハフナー家の結婚式用に書かれた音楽であることから、大規模な編成でシンフォニックで重厚なものでありながらも深刻にはなっていません。 第2楽章、メヌエット、ガランテ&トリオ ガランテ=粋な、洒落た、とかの意味で、モーツァルトにしては珍しい表現ではないでしょうか?確かに雅で貴族たちがお上品にダンスをしているみたいです。 第3楽章アンダンテは優雅な貴婦人たちの立ち振る舞いを見るようにきき惚れてしまうきれいな音楽です。ヴァリエーションになっていて、変化するたびにグラデーションがかかっていくようになっていき、木管楽器のソロがスーッと入ってきます。 第4楽章、メヌエットと2つのトリオ。ガッツリして堂々としたメヌエット。トリオではフルートの澄んだソロイスティックなメロディーが印象的です。トリオではトランペットが祝典的にファンファーレ風のモチーフを吹きますが、当時、相当の名手がいたであろうと思わせるものです(当然、この頃のトランペットには今みたいなバルブで音を調整出来ない楽器だったのですから)それか、モーツァルトか父親の友人、知人が楽団にいて、仕方なくトランペット嫌いのヴォルフガングも見せ場を作ってあげ

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その12)

クリストファー・ホグウッド追悼企画のモーツァルトのシンフォニーの連続試聴記、第12回めになりました。 ・交響曲 第28番 ハ長調 K.200(K.189k) 1773年から74年に書かれたシンフォニー群の最後に書かれたといわれます(1774年11月) 第25番・第29番を書いた後の作品としてきくと私たちの耳には「後戻りしたのでは?」ときこえますが、当時としては常識的な(むしろそれらより質の良い)古典派シンフォニーでしょう。 編成はオーボエ、ホルンが各2本に弦楽器、そこにトランペット2本にティンパニを加えたやや大きめの規模です。 第1楽章、活発な動きに満ちた音型に彩られた楽章です。 第2楽章、やさしさに包まれるようなアンダンテ。第41番「ジュピター・シンフォニー」の第2楽章できかれる木の葉が舞い落ちていく様なモチーフが出てきます。それを繰り返して変化を加えていっているように思います。 第3楽章、メヌエット。トリオでの第1、第2ヴァイオリンによる二重奏がシンフォニーというよりもセレナード風なのが印象的です。 終楽章はトランペット、ティンパにも戻って来て祝典的な盛り上がりをつくっていきます。ティンパニは花火を打ち上げたようなインパクト、オーボエにはかなりきき所があって、独自性が与えられています。 ★★★☆ ・シンフォニア ニ長調 K.121/K.207a 「偽の花つくり女」序曲 1775年に初演されたオペラの序曲にK.207aのケッヘル番号のついたプレストの終楽章を加えてシンフォニーの形にして演奏しています。 第1楽章アレグロ・モルト~第2楽章アンダンテ・グラツィオーソ~そして終楽章がプレストの3つの楽章が続けて演奏される7分弱の曲です。 オペラの序曲らしく生き生きとした第1楽章、弦楽器主体の優美な第2楽章、終楽章はメリハリがあって爽快感が駆け抜けます。 ★★★ ・シンフォニア ニ長調 K.204(K.213) 1775年に作曲されたセレナード第5番から4つの楽章を抜き出しているシンフォニー・ヴァージョン。 第1楽章アレグロ・アッサイはトゥッティに続く即興的なティンパニが印象的です。その後は強弱、長調・短調が交替する初期のシンフォニーを思い起こさせるものがありますが、にぎやかなだけでこれといった特徴がなく仕事として書いたと

モーツァルト:交響曲全集完聴記(その11)

ホグウット=シュレーダー共同リード、アカデミー・オブ・エンシェント・オブ・ミュージックのモーツァルトの交響曲全集の試聴シリーズの第11回です。 CD9 交響曲 第30番 ニ長調 K.202(K.186b) 1773年から1774年にかけて次々と書かれたシンフォニー中の1曲です。 第1楽章、ファンファーレのようにして始められる祝典的なイタリア序曲のような音楽で、第25番や第29番をきいてきた耳には少し後退したように思いますが、何らかの祝典行事のための注文を受け仕事として書き上げたものかもしれません。でも、展開部ではイタリア趣味ではきかれないような対位法を使っていて進化があります。 第2楽章はモーツァルトにしては特別魅力のあるメロディーがあるわけではない、大人しい楽章。決して悪いわけではないのですが、イマイチインパクトに欠けてしまいます。 第3楽章のメヌエットも定石通りのもので、しかたなく「カッタルいな~」と思いながら注文仕事を片付けているモーツァルトの姿が浮かんできます。トリオでは室内楽的な親密さが、まさにトリオといった趣があります。 終楽章、追い立てるようなリズムが印象的で「ワッショイ!、ワッショイ!!」と神輿を担いで騒いでいるみたいで落ち着かないです。ここでも祝典的にしたいのかメロディーよりも同じリズムで押し切り、終止部もフト終わってしまうのであっけなくて満足感が無いシンフォニー。書いていたモーツァルト本人も完成させてホッとしたのではないでしょうか? ★★☆ シンフォニー ニ長調 K.203(K189b) 1774年に書かれたセレナード第4番の全8楽章から4つの楽章を抜き出してシンフォニーとして演奏しています。編成はフルート、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット各2本にティンパニ、弦楽合奏という大所帯で屋外の祝典行事作品でしょうか? 第1楽章、アンダンテ・マエストーソの短い序奏に続き、アレグロ・アッサイの主部が始まります。 第2楽章―セレナードの第6楽章。弱音器をつけた弦楽器の伴奏のもとでオーボエ・ソロが吹くメロディーがとっても素敵で印象に残ります。セレナードの緩徐楽章のため陰鬱なものでなくてまさに「夜の音楽」といった雰囲気をもつものです。 第3楽章―セレナードの第7楽章。トランペット、ティンパニが加わって武骨に奏される

モーツァルト;交響曲全集完聴記(その10)

ホグウッド、シュレーダー&アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集の完聴記、今週は初期交響曲の傑作で皆さんにもよくきかれている第25番ト短調と第29番イ長調の2曲をきいていきます。 CD8 交響曲 第25番 ト短調 K.183(K.173dB) 同じくト短調にしてモーツァルトのシンフォニーの最高傑作のひとつといわれる第40番に対して「小ト短調」と呼ばれることもあるこの第25番。作曲されたのは1773年。このところきいてきた第21番から27番といった同じ時期に連続して書かれたシンフォニー群がどちらかといえばイタリア風の明るく音楽の流れの豊かさがあるものに対して、マイナーコードであることと、熱い感情表現が前面に出てきているひと際目立つ作品であります。 ただモーツァルト本人はそんなに深刻に考えていたわけではなく、当時流行していた芸術運動「シュトルム・ウント・ドランク」の感じのシンフォニーも書いてみようというノリだったかもしれませんが・・・。 編成はこんなにも緊迫感と悲壮感があるのにいたってシンプルで、オーボエとファゴットが各2本、ホルンが4本に弦楽というものです。 第1楽章ではシンコペーションが効果的に使われドラマティクに展開していきます。弦楽器が激しく動き、崩れそうになるのを他の弦楽器が止めるなど手の込んだ技法がきかれます。 私は以前この第1楽章を吹雪の中を車で走っている時きいて「なんとシュチュエーションマッチしているんだろう!」と驚きがあったことを思い出します(雪道の運転は嫌ですが。。。) 第2楽章アンダンテはそんな吹雪の夜に、暖炉のある部屋で明かりはその暖炉の炎のみという暗い、でもほのかな温もりの中でひと時の休息を取っている気がします。前の楽章からの余韻が漂い、これから先への不安といったものを抱えているみたいで本当の安らぎは感じられません。 第3楽章、笑顔の無いメヌエット。第40番のメヌエットへと通じているようにも思われます。トリオは管楽器によるアンサンブルが一息つかせてくれます。 メヌエットのメロディーを受け継ぐようにして開始される終楽章。若い情熱がほとばしっているような音楽で、例えば趣はちょっと違いますがピアノ・コンチェルト第9番「ジュノム」の終楽章みたいに熱い爆発の炎が燃えさかっています。先入観もある