投稿

6月, 2013の投稿を表示しています

ひろしま美術館の印象派絵画展

イメージ
ひろしま美術館の印象派コレクションの展示を観てきました (於:長野県信濃美術館) 入って1枚目の絵から飛び込んできたのは色が暗くて、アラブ人の肌、大地の色、その3色の調和が見事な作品 ドラクロワ の 「墓地のアラブ人」(1838年) それから マネ の 「灰色の羽根帽子の婦人」(1882年) 帽子の羽根や服の繊維一本一本が立体的で驚きの作品。 あと、 セザンヌ の 「曲がった木」(1888年~90年)   油絵でありながらも水彩画を思わせるタッチ、そして日本の田園風景を写生したみたいに感じました。 セザンヌ はもうひとつ 「坐る農夫」(1897年) が展示されていました。 こちらはバリバリの茶色を基調にした土の香りまでしてくるような絵・・・ 他にもルノワール、マティス、ドガ、シャガール、同時期のピカソ、そして印象派からインスパイアされた日本人画家の作品もありました。 日本人画家では構図、暗い色、人物の感じといい、まるでレンブラントへのリスペクトみたいな 佐分真 の 「貧しきキャフェーの一隅」(1930年) 鴨井玲 の 「村の酔っ払い(三上戸)」(1973年) そこには少し狂気みたいな空気があって芸術の奥深さのほんの一端に触れることが出来た有意義な時間でした。 自宅から高速道路を使わなかったので往復2時間30分。 車中できいた音楽は以下の通りです。 ●ドビュッシー:「子供の領分」・「版画」・「ベルガマスク」組曲・「ピアノのために」                                               ピアノ:サンソン・フランソワ ●モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番変ロ長調K.450/第16番 ニ長調K.451        ピアノ・指揮:マレイ・ペライア/イギリス室内管弦楽団 ●シューマン:交響曲第3番変ホ長調Op.97「ライン」 指揮:オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団

『ニーベルングの指輪』完聴記(4)

イメージ
ついに 「ニーベルングの指輪」完全聴破も「たそがれ」編!! 本日はその 第3夜楽劇「神々のたそがれ」 あ~長かった、くたびれた。。。というのが第一印象。 ここ1か月ワーグナーの音楽が連日頭の中でグルグル回り、彼の音楽は「麻薬」といわれるけれど本当にそうです! そして上演に5時間超!序幕と3幕11場!!というオペラの恐竜みたいなきき手にも演奏家にも体力・精神力を要求する作品。4部作の最後を飾るにふさわしい規模をもっています。 対訳本上下巻で660ページを超える!   この作品で気が付くのはワーグナーが一度否定して廃した「重唱」が目立つことです。 *複数の人物が同時に違う歌詞を歌うのはドラマ的ではないとして「オペラとドラマ」という論文で書いているそうです。 そういった面では「ジークフリート」が新しい響きに満ちていたのに対してこの作品はオペラ的な感じがするのできき易いかもしれません。 第1幕第2場ヨーゼフ・グラインドルのハーゲンが独白する場面ではこのキャラクターが持っているとてつもない腹黒さが見事に表現されています。 ジークフリートと妾腹の子である自分の身分の差を比べつつも自らの計略第1段階が成功したことに喜びつつ 「das Niblungen Sohn」 (このニーベルングの息子に) と歌う瞬間はゾッとします。 第2幕第5場、裏切られたと思い込んでいるブリュンヒルデ、迷うグンター、指輪を手にしたようにほくそ笑み3者の思惑が入り混じりながらジークフリート殺害の陰謀が仕組まれるところ―グンターが歌う 「Sigfred Tod!...」(ジークフリートの死か!...) という歌詞はその前に感情を込めてハーゲンがグンターに向かい「dir hilft nur Sigfred Tod!」(お前を救うのは、ただ、ジークフリートの死だ!)と言ったことへの返答であることからインパクトが小さくてそのまま聞き逃してしまいそうですが、この英雄・悪人・偽善者・・・などなど強烈キャラクターばかり登場する「ニーベルングの指輪」ではどちらかというと印象の薄いのですが、ギービヒ家の惣領にして領主でありながら臆病で、虚栄は張りたい内面の葛藤をよく表し、これから展開する終末を決定づける言葉ではないでしょうか? トマス・スチュアートがその揺れ動く心から、

『ニーベルングの指輪』完聴記(3)

イメージ
自分が年齢を重ねるとほんの10年前なら躊躇なく挑戦したことが今では必ずその前に立ち止まって失敗を 「 恐れて」 「やっぱりやめておこう」となることが多くなりました。 それはそれで経験値が上がっていることになるのでしょうが、後で「やっておけばよかった」と後悔することも多々あります。    この「ニーベルングの指輪」第2夜にあたる 楽劇「ジークフリート」 はヴォータンが中心となっていた神の世界が 「恐れを知らぬ者」 イケイケどんどんの若者ジークフリート(ヴォータンの孫にあたる)へと世代交代が軸となっていきます。 しかしこの楽劇、前半から中盤まで深い森が物語のほとんどを占め登場人物も少なく(中盤まで男声しか登場しない)物語も大きな起伏があるわけではないのできき続けるのがしんどくなってきます。さすらい人(ヴォータン)とミーメのクイズ場面(第1幕第2場)などは前2作までのストーリーのダイジェストのようになっていてまるでライトモチーフの復習ではないか?と思いながら「ラインの黄金」からきいてきているきき手にはしつこく感じる箇所ではないかな?とも考えます。 そしてそうした試練!?が延々と続き第2幕第3場でやっと大蛇(アルベリヒ)とミーメを倒したジークフリートが鳥の声が理解できるようになった瞬間に小鳥の女声エリカ・ケートが登場するとホッとすると同時に視界が開けたような解放感があります(ワーグナー自身は小鳥役にボーイ・ソプラノを指定しています) 私は戦争映画「Uボート」を思い浮かべてしまいました。 第2次世界大戦におけるドイツの潜水艦(Uボート)における乗組員が極限状態・不条理(戦争自体が不条理なものですが)に次々直面する内容ですが、主役は「Uボート」自身で艦長以下乗組員の面々も、そしてわずかしか登場しない女性。本当にストイックな映画でこの楽劇に通じるものがあります。 そしてこの楽劇で重要なことは作曲期間に大きな断絶があることです。 彼自身このニーベルングの物語に基づく4部作完結は半ば諦めてしまったと思われるように楽劇「トリスタンとイゾルデ」、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を完成させたのち再び作曲に取り掛かった第3幕、そういった詮索をしなくても雄弁壮大な前奏曲からはこの作品へかけた意気込みを自然とききとる事が出来ると思いま