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年末蔵ざらえ2022

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  毎年作曲家のアニヴァーサリー・イヤーとして、生誕〇〇年とか没後〇〇年なんてやって演奏会やCDを発売しますが、ここ数年は例の「意地悪ウィルス」のせいで大規模な催し物もできなくなってしまいました。それで一番割を食った作曲家と言えばベートーヴェンではないでしょうか?  本来であれば、2020年は生誕250年として賑々しく演奏会やイベント、販売業界では大きなボックスセットでも販売して・・・等々、近年のクラシック音楽業界の起爆剤となってもらうべく、御大に控えていただいていたと思いますが、出番もなく過ぎてしまいました。。。  ここのところ社会情勢の変化に伴い、演奏家もきき手も多様化し、CDや演奏会では無く、動画配信やダウンロードサービスを発信側(演奏家)・受け手(きき手)どちらも利用するので、時代を問わず数多くの音楽を一瞬できけるようになり―それはそれで便利ですが、その為、愛好家総評論家時代となりました。以前は評論家推薦盤とか、名曲・名盤選なんてのを頼りに1枚1枚ディスク購入の参考にしていた時代は過去のものとなり、好きな音楽を、好きなだけ、好きな時に、なので、バッハならマタイ受難曲、リヒター盤とかベートーヴェンの第9ならフルトヴェングラーのバイロイト盤などと言っている時代は過去となりました。  それによりベートーヴェンもすっかりご無沙汰だったので、ここでクラシック音楽界の御大に登場いただき、演奏会とかCDとかの恩恵に与りたかったのですが残念でした。しかし、それを埋め合わすに十分な、ジョルディ・サヴァール指揮によるベートーヴェン交響曲全集が完結しました(オーケストラはもちろん手兵のル・コンセール・デ・ナシオン)  第1巻が2第1~5番まで、第2巻が第6番~第9番まで。録音は第1番の2019年から第9番の2021年まで2年かかっています。ベートーヴェン生誕250年に向けた演奏会プロジェクトと連動した録音であると思いますが、世界情勢の変化により、プロジェクトにも影響があり、演奏会・録音そして販売までに苦労があったものと思います。  たしか、この演奏会はNHK-FMの海外の演奏会紹介で放送された記憶があります。  仕事の帰り道のカーラジオや、自宅で少しか耳にできなかったのですが、「エロイカ」などは「やけにティンパニが張り切っているな、アドリブみたい」とか「ビートの効いた弦楽器」くら

ニコラウス・アーノンクールさん追悼〜2016年振り返り

 今回は2016年にきいたディスクから印象に残ったものからー何といってもショックなのがニコラウス・アーノンクールさんの逝去です(3月5日)未だにそれを引きずっていて、このブログで何度か追悼の投稿しようとしましたが、思い止まっていました。  私が音楽をきき始めた90年代、NHK−FMの海外コンサートでウィーン・コンツェントゥス・ムジクスからベルリン・フィルやウィーン・フィル、コンセルトヘボウ・オーケストラ、ヨーロッパ室内管弦楽団などに客演したものがよく放送されていて、それらをエア・チェックしてきいていました。まだろくに音楽をきく耳を持たなかったにも関わらず、目を覚まさせるような響きをコーフンしてきいたことを思い出します。 ハイドン〜モーツァルト〜ベートーヴェン〜シューベルトの古典派からロマン派の楽曲はそれらの演奏で刷り込まれたといっても過言ではないです。そのために今でも他の演奏をきくと物足りないことを感じるこがありますが、、、 残っているエア・チェックの中でも最後の来日公演となったバッハのロ短調ミサ曲の素晴らしさ!実演をきいてみたくも叶えられなかった残念な思い出と共にあります。  ディスクではここ数年、減少傾向を辿るこの業界にあっても意欲的に新録音を発表出来たのは珍しい事ではないでしょうか? モーツァルトの後期三大シンフォニー、ヘンデル=モーツァルト編曲のオラトリオ、ラン・ランとのモーツァルトのピアノ・コンチェルト・・・もっともこれはソリストの人選ミスという演奏でしたが・・・ また、このブログでもアップしたモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」と「ハフナー・シンフォニー」ーそして追悼盤になってしまったベートーヴェンの第4番と第5番シンフォニーにミサ・ソレムニス  高齢な指揮者が陥るようなルーティンワークにならずー彼の場合はそんな事は想像できなかったですがーでも、神から自分に与えられている年月を知っていたのか、レパートリーは本当にやりたいものに絞ってー彼には珍しくよく知られた作品の再録音が多かった事は、解釈への自信と手兵コンツェントゥス・ムジクスと音楽を創り出す時間を楽しんでいたようにも思われますが、それにアーノンクールというアーティストが一時期のキワモノ扱いから、巨匠扱いの指揮者になってワガママを言える身分になった事もあるのではないでしょうか?

年末棚ざらえ~2014年にきいたディスクから

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今週は12月最終週ですので2014年にきいたディスクからこのブログで紹介しきれなかったものを取り上げつつ今年を振り返りたいと思います。 ⊡J.S.バッハ:フーガの技法    ピアノ:アンジェラ・ヒューイット バッハの最高傑作のひとつといわれながらも曲順・構成、作曲年代、果ては演奏する楽器指定もない謎々だらけで、この作品を手掛けるのは演奏家にとってもかなり手強く、またやりがいのある仕事であることは間違いないと思いますが、バッハの鍵盤楽器による作品をたくさん弾いてきたカナダ出身のピアニスト、ヒューイットがいよいよこの曲を録音しました。   さすがに今までバッハの作品を弾いてきただけあって、ポリフォニックな旋律の動きに精緻な表現と、作品に必要なものを全て兼ね備えた演奏です。しかも、近年流行の学究的な方向へ傾斜せずに知性的で品位、そして数々の舞台に立ってきた経験値が結合して「ヒューイットのバッハ」として作品をきかせてくれます。 そう思いながらきいていると、確かにその通りと納得して感心したり、ムム??そうなるの?と疑問に思ったり、あまりにもロマンティックすぎやしないかしら?と戸惑ったり、後半にかけて―ヒューイットはBWV番号順にコンプラプクントゥス1~13、4曲のカノン、コンプラプクントゥス14という順に、ただしBWV.18「2台のクラヴィーアのためのカノン」は除き弾いています―曲が難しくなっていっても「この曲はこんなに難解ですよ!」という演奏者の叫び?悲痛?がきこえてくるわけではなく、淡々と曲が進んでいきます。そういった解釈によりかえって邪魔にならずに、このとても長くて超難解な作品をきき通すのに役立っていると思います。 ⊡ ハイドン:弦楽四重奏曲集    「太陽四重奏曲 」 Op.20(全曲)    「ロシア四重奏曲」 Op.33(全曲)    「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」 Op.51    「第2トスト四重奏曲」 Op.64(全曲)    「エルデーディ四重奏曲 」 Op.76(全曲)    「ロプコヴィツ四重奏曲」 Op.77(全曲)    演奏:モザイク弦楽四重奏団 新しい録音ではありませんが、1985年にウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのメンバーにより結成されたモザイク弦楽四重奏団、

アーノンクールのポストホルン・セレナードと「ハフナー」交響曲

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現在「 巨匠 」といえる指揮者が払拭しているなかでほぼ唯一その称号に値するであろうと私の思い浮かべる名前「 ニコラウス・アーノンクール 」その彼が手兵の ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス と2012年に再録音した モーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン・セレナード」と交響曲第35番「ハフナー」 をききました。  まずセレナードに先駆けて前座のように演奏されたといわれている行進曲ニ長調K.335(320A)が始まります。そのスピード感と鋭い響きに驚きます。オーボエやホルンのソロでのフレージングもドレスデン・シュターツカペレとの1984年の旧録音がのどかに感じるほどです。それは当然楽器の違い、30年近い歳月が経過したことも影響しているかもしれませんがアーノンクールが年齢を重ねもう半世紀以上の付き合いになっている仲間達と本当に表現したかったことをやっているようにも映ります。 セレナードも行進曲の勢いそのままに始まり、彼が音楽で標榜し、著作でも述べている「言語としての音楽」を実践しているものです。それぞれのフレージングが徹底的に洗い流されていて各楽器が掛け合い、語り合います。それは第2楽章や第6楽章のトリオ部ではっきり示されているように思います。 第5楽章アンダンティーノは歌劇「フィガロの結婚」の最終幕でバルバリーナがピンを落としたといって暗闇を探す場面やピアノ協奏曲第18番K456の第2楽章を思い浮かべますが、その情緒ある音楽は音楽に身を浸すというより、ひんやりしていて悲壮感も漂わせています。  交響曲第35番「ハフナー」も同様な解釈ですが、第1楽章のテーマの響きはワルターやベームとは違い―彼らが「ロココの作曲家モーツァルト」という見方に立っていたのに対して、アーノンクールはフォルテの刺激的な鳴らし方などで、当時どんな作曲家よりも新しい響きを作ることのできた「前衛音楽家モーツァルト」を知らしめます。でも、第3楽章メヌエットではフト軽めにしたトリオととても踊れないリズムのメヌエットとの対比がいいです。第4楽章プレストの曲の終わり手前でグッとテンポを緩めて、きき手じらすようにしてから―再加速して終止するところなど「ちょとあざとすぎない?」と思いながらもここまでやられると納得させられます。 こちらは旧録音で入退場に使

2013年印象に残ったディスク

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今日は年の瀬ですのでブログで取り上げられなかったディスクを整理して心に残っているものを何点か取り上げたいと思います。 ◎まずはカール・シューリヒトの復刻ディスクから 彼の演奏は昔、世評高いブルックナーの交響曲第8番と第9番をウィーン・フイルを指揮したものをきいたとき、まるでスルメいかをお湯に入れてふやかしたものを噛んでいるみたいな(そんなことはしたことありませんが・・・)なんともキリっとしない演奏に「なーんだ、シューリヒトって指揮者なんてたいして面白くないな」と当時スクロヴァチェフスキがザールブリュッケンの放送オーケストラと進めていたシリーズの演奏に強く惹かれて私はその違いだけで「古い」=「面白くない」と勝手に決めつけてシューリヒトの演奏をきくことは全くありませんでした。 今回ブラームスの交響曲第3番と第4番やシューマンの交響曲第3番「ライン」などをきいてみて今までの意見が変わりました。彼の演奏で驚くのはそのスピード。そのテンポであっても、精緻なアンサンブル―オーケストラ技術に多少難はありますが(でも、いまのドイツのオーケストラからはきけない素朴な木管の音や自然なホルンの音などの魅力があります)そして主題やフレーズの絶妙な歌わせ方!素晴らしい演奏です。 同世代にフルトヴェングラーという巨大な指揮者がいたため目立たないことと、本人自身が華々しい舞台に立つことを好まなかったためか、巨匠扱いされないですが、偉大な指揮者であったことを知ることが出来ました。 ◎次はミヒャエル・ギーレンがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を客演した際にライヴ収録されたマーラーの交響曲第7番「夜の歌」― 本来はクラウス・テンシュテットが客演する予定だったものがキャンセルとなった公演とのことです(テンシュテットの演奏も実現していたらどんなものだったのだろう!?) まずきいて驚くのは第1楽章冒頭からスコアでは書かれているものの大概の演奏では他のフレーズやメロディーの陰に回ったりしていたものが混ざり合わずにきこえてくることです。 第2楽章と第4楽章では「ナハト・ムジーク」での夜の描写(大編成オーケストラで精緻な表現)や終楽章ではオーケストラの色彩を最大限に生かした輝かしいサウンド―これは同世代で親交もあったR.シュトラウスからの影響も―あまり人はいいま

ブーレーズのマーラー(2)

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マーラーの交響曲の演奏では改めて言うまでもなくバーンスタインが筆頭に挙がってきますが、彼の感情移入たっぷりの涙と慟哭でいっぱいにされた後、立ち上がれないほどの重荷を背負わされたような―そこにはバースンタインのケレン味も感じる場合もありますが―ブーレーズ盤は当然そんな音楽はきこえてきません。 決めれたサイズ、規格で出来た精密機器のように、まさに「冷たい」と表現したほうが良いというものですが、これは彼の演奏なら予想されたことです。まるで「泣きたければ泣け」と言われているみたいと感じる方もいるかもしれません。 マーラーの交響曲というのは大音響で「聖」と「俗」が入り組んだ複雑なスコアで様々な楽器が、それはもうハイドンやモーツァルト、それからベートーヴェンといった人達のものより何倍も盛り込まれ、音の洪水みたいになっている音楽なので録音状態はいい方がきき易く「マーラーの交響曲は大音響で鳴っていればOK!」というきき手の方にブーレーズ盤はお勧めできます。 マーラーの交響曲第7番は「夜の歌」という副題が付いていてもなかなか評価が定まらず「支離滅裂な作品」とされていますがブーレーズの交響曲全集の録音中、一番高く評価したいです。 私のマーラーの交響曲体験は「大地の歌」(これを交響曲とするかは意見がいろいろありますが)から始まり第9番の次くらいにきいたので結構早い段階で接してきたせいかも知れませんが、一番彼の交響曲でピン!ときた作品なので最初、評価が低いと知ってショックでした。 第1楽章の混沌とした世界(独特なテナー・ホルンによる音色が印象的)第2・4楽章の憂いを帯びていながらも優美な音楽。ギターやマンドリンまでも使用したその響きにも魅かれました。その音楽に挟まれた不安や焦燥感をもった第3楽章のスケルツォ。そして第5楽章の歓喜?狂喜?ともいえる爆発的な音楽。初めてきいた時は人類の終わりを前にして羽目を外した大騒ぎではないか?それともベルリオーズの「幻想交響曲」の終楽章ではないですが―死後の地獄絵図をきいているみたいでした。 ブーレーズ盤の話に戻りますと、彼は第5番から始まった「純器楽」による交響曲のひとつの到達点として演奏しているように感じ、本当によく楽器がなっています。それは冷たいだけではなくて、例えば第4楽章のヴァイオリンがとても甘美なメロディーを演奏しています。 オー