モーツァルト:交響曲全集完聴記(その17)

ホグウッド(コンティヌオ)とシュレーダー(コンサート・マスター)の共同リードでアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックが演奏するモーツァルトの交響曲全集の完聴記、今週はいよいよ後期三大交響曲に突入します。

今回はその第17回。第39番と第40番の第1稿―皆さんもご存じの通りクラリネットが編成に入っていないヴァージョンですね。をきいていきたいと思います。

CD15


交響曲 第39番 変ホ長調 K.543

第1楽章。ファンファーレのようなリズムをもった奥深いアダージョの序奏。崇高な響きに満ちて、それは変ホ長調(晩年のオペラ「魔笛」や弦楽五重奏曲K.614もそう)という調性とフランスのオーケストラのために書いた第31番「パリ」やセレナードの改作である第35番「ハフナー」といった特殊な場合でしか加わらなかったクラリネットを編成に含むための効果と思われます。(第40番の改訂によってクラリネットを加えているので例外といえます)
主要部に入っていくときのうっとりするような推移。展開していく音楽は表面的な優雅さだけでなく、モーツァルトの創作の充実が新しいステージに入っていることを実感させるもので、大袈裟ですがロマン派のシンフォニーにも通じていく様にも感じる瞬間があります。
第2楽章は美しい歌の世界としか表現のしようのないほどの透明感!ドラマテックな所と嘆き節が見事に融合させています。モーツァルト生涯最後の年に書かれたピアノ・コンチェルト第27番やクラリネット・コンチェルトなどでもきかれる深まっていく秋のようなはかなさがあります。
第3楽章、K.602やK.605のドイツ舞曲にも似たレントラー風のメヌエットです。またここではクラリネットのデュエットがソロイスティックに活躍してききどころのひとつです。
第4楽章、ハーモニーの美しさ、重厚さを持ちながらも軽快さを失っていないことに感心してしまします。細かい音の粒が固まり、キラキラと光を帯びて輝いているみたいです。コーダにかけて繰り返されるメロディーは勝利の凱歌を挙げているようにきこえ、次の第40番が感傷的な響きなので、後期三大交響曲をひとつのセットとして考えた場合、この第39番は起承転結でいうと「起」=「序曲」ともいえるシンフォニーと思います。
★★★★★


交響曲 第40番 ト短調 K.550 (第1稿)

先にも書きましたが第39番が勝者・成功者の音楽なら、こちらは敗者の音楽といった作品で「起」から「承」への転換といえるものでしょう。
このシンフォニーは昔から悲劇的・デモーニッシュな面ばかり強調されることが多く、ききてもそういったことを意識してきかなければならないことを強要されているようにも感じることがありますが・・・そして、この第1稿はクラリネットのような包み込むようなまろやかな音色を含まないのでより一層そういった寒々とした感覚が第1楽章からダイレクトに伝わってきます。
第2楽章、このアンダンテで注目すべきは短調ではなくて「変ホ長調」ということです。そう、第39番と一緒なのです。それでも第1楽章よりも感傷的なのが特徴で、モーツァルトの音楽というのは晩年になるにしたがい、長調だから明るく楽しい、短調だから暗く悲しいとばかりいえず、その逆にきこえてくることがあって、心を揺り動かされる瞬間が多々あります。
第25・26小節、それ以降も出てくる下降する音型はまるで花びらがヒラヒラと散っていく様子が浮かんできてさびしい気分になります。
第1稿をききなれた私にはクラリネット・パートをオーボエが担当するので、どちらかというと抒情的で嘆きの感情がより表出しているように思い、モーツァルトが最初の稿でクラリネットを編成に加えていないことの意味が分かったような気がします。
第3楽章メヌエット。不規則でピリピリしたリズムは打ちのめされてフラフラになっているようにきこえます。
終楽章は激しい感情があらわになってききてに迫ります。これは敵に追い立てられながらも、気力を奮い立たせて立ち上がり、前へと進む人間の姿のようです。
フーガ部はこの緊張感に満ちききての胸を締め付ける音楽において、次の第41番「ジュピター」の出現を預言しているみたいで、そこに希望の光が一筋見えているように思います。
★★★★★


【演奏メモ】
第39番は珍しくクラリネットを含むシンフォニーをここでは当然オリジナル楽器、それも幅広い音域をもったバセット・クラリネットを用いている様で、オーケストラからしっかり浮かび上がってきこえます。また、フルートももちろん木製のタイプなのでクラリネットと掛け合う所が違和感なくハマっています。モーツァルトが意図したであろう響きの参考の一端になります。

第40番、この曲にまとわりつくドロドロした情念みたいなものをきれいさっぱり洗い流したフレッシュなさわやかなもので、当時、まだワルター、フルトヴェングラー、ベームといった演奏が主流のなかで登場した時は驚きがあったんだろうなぁ~と再認識します。

両曲ともに共通しているのはホグウッドが弾いているといわれるコンティヌオ(チェンバロ)はほとんど全くきこえてきません。後期三大交響曲では編成が大きくなってきこえなくなっているのか?それとも複雑で表現力も要求される音楽なので指揮に専念?

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