モーツァルト:交響曲全集完聴記(その16)

ホグウウッド&シュレーダーとアカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによる交響曲全集の完聴記、いよいよ後期三大交響曲まで目前です。その前にまだ残っている落穂拾い的なシンフォニーと都市名の付いた「パリ」「プラハ」曲をきいていきたいと思います。

CD14~

交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 【第1稿】

1778年のフランス旅行の時にパリで書かれ、初演された曲。直前に立ち寄ったマンハイム楽派(当時、ドイツ南西部に位置したこの地には領主の趣味もあって大規模オーケストラがあって、シュターミッツ親子やカンナビヒ、リヒターといった作曲家がソナタ形式とかの古典派音楽の基礎をここから発信していたメッカであったといわれ、ここで当然モーツァルトも就活をしましたが失敗しました)からの影響、そしてパリの聴衆の音楽趣味を考えて堂々ととして活発に動き回る弦と管が花火をドカンと打ち上げたみたいにきこえてきて、ききての度肝を抜くパワーをもった第1楽章。でもそういった初演を成功させなければならないという意識が先行してか、モーツァルトの音楽としては少し無理をしているというか、肩ヒジを張って書いたようにもきこえます。
第2楽章。このアンダンテは後にこの曲の依頼主でコンセール・スピリチェルの支配人、ル・グロという人が長すぎるとイチャモンをつけて差し替えられることになるのですが、これはその前の初稿による演奏です。優美なところと聴衆を飽きさせないように所々でスパイスを仕込んだよく考えられた楽章―ハイドンもこの街の聴衆のために6曲の「パリ交響曲」を書いていますが、それに通じる華美なところが感じらるような気がします。
このシンフォニーはメヌエットを含まないので次が終楽章になります。ピアノから弱く始めてから一気に爆発させるという手法で、これはモーツァルトがパリの聴衆を驚かすためにやったらしく、当時パリではシンフォニーのフィナーレはフォルテで始まるのが習慣だったのをその逆をやったみたということを本人が父宛ての手紙で書き残しています。ユーモアが光り、華麗な音楽です。
★★★★☆


CD16~

交響曲 第31番 ニ長調 K.297(300a) 「パリ」 【第2稿】

こちらは先の一件により差し替えられた第2楽章アンダンテによる演奏で、両端楽章は特に変化はありません。
第1楽章のフルートの上昇音型は明らかにマンハイム楽派からの影響であると思われ、フレーズのひとつひとつの全てが右肩上がりで、長短を組み合わせて変化をつけるシュターミッツやカンナビヒの作品にも似ています。
そして件の第2楽章アンダンテは第1稿に比べ明快なつくりで平面的ではありますが、前楽章があれだけうねり荒れ狂ったような音符がいっぱい並んだ音楽をきいた後にはこれくらい素直なメロディーの方がいいかも知れません。もちろんモーツァルトが書いた音楽なので決して悪くなくて全曲をきいたらこちらの方がいいと思う時もあります。どちらが良いかはTPOできき分けたいです。
★★★★☆


CD19

交響曲 変ロ長調 K.Anh.216(K.174g/Anh.C.11.03)

久し振りのモーツァルトの初期交響曲ですが、このとっても長いケッヘル番号を持つ作品はかなり出所が怪しく、20世紀になって筆写譜が発見されたものの現在ではその行方すら不明という有様です。
作曲されたとしたら1771年頃ザルツブルクであろうと推定され、弦楽器にオーボエとホルンが各2本、メヌエットを3楽章に含む全4楽章から成ります。
第1楽章アレグロ。流麗な音楽ではなく、どことなくぎこちない大人びた趣。
第2楽章は一定のリズムで時を刻むようにして進む単調なもので退屈してしまいます。
第3楽章のメヌエット&トリオ。どちらも大人しい、あまり舞曲の楽しさが伝わってこない音楽。
終楽章アレグロ・モルトは速く曲を終わらせたいかの様に優美と流麗さとは無縁な無愛想でせかせかしたスピード重視の音楽。



交響曲 第37番 K.444(K.425/K.Anh.A.53)

旧全集といわれる整理番号では第37番と呼ばれていましたが、実はミヒャエル・ハイドンの交響曲ということが判明。実際モーツァルトが書いたのは序奏部の20小節のみ。恐らく演奏会用のシンフォニーが必要になってミヒャエル・ハイドン氏のものを借用したと思われますが、そのまま使用するのは気が引けたのか序奏部をつけて、オーボエとファゴット各2本を加えて演奏したのでしょう。
序奏部アダージョ・マエストーソの重々しさ、深刻ぶったところから、M・ハイドンの書いた方のアレグロ・スピリトーソの音楽ののどかな所への変化が面白いです。
第2楽章アンダンテ・ソステヌートでは中間部にファゴットのおどけたメロディーが差し込まれていて、これはモーツァルトが書き足した部分でしょうか?
終楽章のアレグロ・モルトは一瞬、初期~中期のモーツァルトが書いたシンフォニーを思い出すようなサッソウとした音楽です。こうやってきくと真偽不明の初期シンフォニーもモーツァルト作とも言えなくなってきて謎は益々深まり、偉大なモーツァルト研究家たちがそういった曲やこの第37番の交響曲をモーツァルトの作品と判断したことも見識が無いとは言い切れないと思いました。


CD14~

交響曲 第38番 ニ長調 K.504 「プラハ」 

後期のシンフォニーとしては唯一メヌエットを含まない全3楽章のシンフォニーで、1786年5月、オペラ「フィガロの結婚」がウィーン初演はされたものの長く上演されなくなったとき、大好評で迎えられたプラハへ訪問した1787年1月に初演されたといわれているのがこの曲であったことから「プラハ」というニックネームで呼ばれます。と、以前までは伝えられてきましたが、現在ではこの曲がプラハ訪問の前年12月には書かれているので―モーツァルトは演奏会のために前もって書いておくというタイプではなくて、その直前に一気に書き上げるタイプの作曲家であったことから、他の演奏会用に書いてあったシンフォニーをプラハで再演したというのが実態だったようです。だからといって音楽の価値が下がるわけではないのですが・・・そういった逸話が不必要なほどの傑作交響曲、一般には後期三大交響曲というくくりでその前の作品は一段低いような印象を与える呼び方をしますが、全くの間違いでその3曲に匹敵する、凌ぐ交響曲であるというのが私の考えです。
第1楽章、序奏部アダージョはモーツァルトのシンフォニー中でも最高傑作のひとつといえるもので荘重さと深みを持っているもの、昔の巨匠たちはたいそう重々しく―ベームとかカラヤンはやっていたが、ここでは肩透かしを食ったようにブレックファーストはトーストに紅茶といった風です。
主部の重層にしてテーマが同時進行していくところは先輩ハイドンにはきかれない独自なものです。また長調―短調への変化、それによりる明と暗の陰影の表現の素晴らしさ!時代を考えるととても前衛的な手法だったのではないか?と思います。
第2楽章は穏やかな情感たっぷりな音楽です。終楽章は躍動感・リズム感がたっぷり楽しめて、堂々として決して慌てず、キチン、キチンとフレーズが決まっていく風格ある音楽です。


【演奏メモ】
第31番「パリ」は第2楽章だけが違うので1回録音したものを使いまわすか、もしくは他のディスクでもあるように第1稿・第2稿どちらかのアンダンテのみ全曲の後に別ヴァージョン的に収録しておいてもいいのに、律儀に全曲をそれぞれ録音しているのがすごいです。きいた限りでは編集で使いまわしをしていないと思われます。
この野心的なシンフォニー両稿ともかなりアグレッシブに速いテンポで一気に仕上げていて曲の特徴をよく掴んでいます。

変ロ長調K.216は出所の怪しさもあってまず演奏されることはないので、恐らくこの演奏でしか聞けないシンフォニーだと思います(その点では貴重)
でもホグウッドは資料的価値のみとして演奏しているといった印象です。

第37番は全曲演奏していることにより、モーツァルトとM・ハイドンの合作として興味深くきく事ができます。

第38番「プラハ」は少ない弦楽器と軽めのリズムでフットワークのよい序奏部で―E・クライバー、ベームとかカラヤンといった昔の巨匠たちの録音をきくとみんなここをゆっくり、重々しくロマンティックな色付けで振っている演奏をきく事が出来ますが、オリジナル楽器を使っているホグウッドは当然違っていて、すべての音がむき出しになります。
第2楽章では少ない弦を補うかのようにコンティヌオ(チェンバロ)がチャラチャラと控えめに鳴っているのがきく事ができます。
かなり弦楽メンバーを絞っているらしく同じオリジナル楽器によるブリュッヘン盤などに比べると解釈の違いなのもあってか貧血気味に感じる時もあります。後期のシンフォニーになってくると楽器や演奏手法、スピード感だけではどうにも表現できなくなってくるものがある様に思われ、それがなん何なのかをうまくは言えないのですがアーノンクールやブリュッヘンなどの主張ある演奏でないと存在感をアピールできなくなってきているのは残念です。

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