モーツァルト:交響曲全集完聴記(その18)

はホグウッド&シュレーダー共同指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックによるモーツァルトの交響曲全集完聴記、全71曲、CDにしてて全19枚!発売された1980年代にはモーツァルト交響曲演奏のエポック・メイキングだったディスクをホグウッドの追悼企画として視聴記録を開始して18回め!、そして全投稿数もちょうど100回!!パチパチパチ(拍手) その区切りに私の大好きなモーツァルトで完聴企画が終了することに偶然とはいえ運命を感じます(^_^;)

CD19

交響曲 第40番 ト短調 K.550

こちらが多く演奏されるクラリネット入りのヴァージョン。それにより音楽としては情緒的で音色にも厚みがあるのでロマン派の演奏解釈を継承していた20世紀では主流でした。現在もそうではないでしょうか?
恐らくモーツァルトの友人でクラリネットの作品を書いてもらっているアントン・シュタードラーがオーケストラに参加するためにクラリネット・パートを書き加えたといわれています。
以前は後期三大交響曲は作曲動機や初演についても不明とされていて、お金もなく作曲依頼もなかったモーツァルトが芸術的欲求を満たすためだけに書いた3曲の交響曲などと半ば都市伝説風な風に語られていましたが、やっぱりモーツァルトも人間です、収入や演奏会の見込みが無ければ作曲はしなかったでしょう。現在の研究ではモーツァルトの生前1791年まで何回か演奏されたといわれています。
わざわざクラリネット・パートを書き加えていたということは実際に演奏されたという証拠のひとつではないでしょうか?
第1楽章では追い立てられた人間が第2楽章ではやっと一息ついたのもつかの間、展開部ではフト苦しみを思い出し、また忘れようとしても思い出してしまっているようなイメージで、必死に救いを求めるように祈っているなフシが繰り返し出てきます。
第3楽章のメヌエットのトリオではクラリネットが甘美な音楽として吹かれます。
終楽章、誰かに追い立てられているのか?それとも自らを奮い立たせて前に進んでいるのか?
木管楽器の独立した扱いのフレーズは見事で、当然ながらクラリネットも目立ってきこえてきます。

「ゲージュツはバクハツだ」的音楽で当時、モーツァルトの創りだす音楽にしだいについていかれなくなったウィーンの聴衆の反感にも屈せず自身の音楽表現をし続けるモーツァルトの姿にも重なり、チャレンジしているみたいにきこえ、ハイドンや同業者=ライバルたちに出した挑戦状ともいえるシンフォニーではないでしょうか?
★★★★★


CD16

交響曲 第41番 ハ長調 K.551 「ジュピター」

いよいよ1788年8月10日に完成したモーツァルトの最後の交響曲です(どうして大昔の作曲家の書いた作品の完成年月日がわかるかというと、彼がウィーンに出て活動を始めた1784年から自身で作品目録を作っていていたので後世の私たちは知ることができます。ちなみに交響曲第39番は1788年6月26日、第40番が1788年7月25日となっています)
第1楽章、何かが始まるような冒頭、そこから壮麗で完璧なプロポーションで音楽が展開されます。出てくるテーマは簡潔であるのに構造はがっしりしてスマート。まさにアテネに残る古代ギリシアの建築物を見るようです。
第40番からきいてくるとフラフラになりながら生き延びた人間がここでは勇ましく立っているようです。
第2テーマは同時期に書かれたコンサート・アリア「彼を振り返りなさい」と似ているのですが、そのテーマが緊張感のある第1のテーマとユーモアがあるこの旋律とが見事な対比になっています。
第2楽章、静かな湖畔の上にいる白鳥を見ているような優美でデリケートな音楽。哀しみの影がふと現れて、明るさと憂いを兼ね備えた美しい調和があって、これがクラシック音楽というのを実感します。
第3楽章のメヌエットはトリオを含め第39番のようなドイツ舞曲のレントラー風のものではなくて、リュリとかラモーのようなフランス宮廷舞曲のような優雅さと気品があるものです。それが古典的でありながらも荘厳なこの「ジュピター」シンフォニーにはよく合っていると思います。
第4楽章、例の交響曲第1番K.16にも使われていた「ド・レ・フ・ァミ」による「ジュピター」音型により終楽章が導き出され、モーツァルト最後のシンフォニーのフィナーレが始まります。
音楽としては複雑で濃厚なのですがそれをききてに感じさずスーッと耳に入れていってしまうモーツァルトのマジック。しかし、きき終わった後にはすごい充実感が残ります。
後半部は構成はアポロがモーツァルトのもとに降臨したと言いたくなるくらいで、4つのテーマが同時進行していく(360小節~)、コーダの半音階的進行が神秘的な(372小節~)、フーガの美しい造形がきける(385小節~)―モーツァルトはもちろん最後の交響曲を書いているという意識もっていたわけではなく、第39番・第40番・第41番の3つの交響曲で新たにウィーンの聴衆の前に打って出ようとした意欲作であり、彼の集大成を着かけようとする野心作でもあったと思います。
ハイドンやヴァンハルといった同業者たちは表面的には感嘆しつつも心の中では歯ぎしりしていたのではないでしょうか?
★★★★★


【演奏メモ】
クラリネットを含む第2稿でのホグウッドは第1稿に比べ幾分抑えめのテンポで音色のせいかも知れませんが少し濃いめに演奏しています。
第2楽章A(20小節~)の掛け合いはオリジナル楽器だからこそ味わえる美しさです。
悲劇的な面ばっかり強調されてきた「大ト短調」シンフォニー(を第25番の「小ト短調」と呼ぶことの対照としてこう呼ばれることもあります)が快楽的で弾むリズムがライバルに痛恨の一撃を与えて倒したような快感が駆け抜けていくようにきこえます。
「悲しみのシンフォニー」と名付けた人がいますが私には「快感のシンフォニー」としてきこえてきます。

第41番「ジュピター」では澱みない川の流れのように颯爽と進み、曲の感想の中に「古代ギリシア」の建築物と書きましたがまさに白亜の大理石でできたパルテノン神殿みたいです。それにはイイ面と弱点もあって、終楽章はワルターとかベームといった巨匠時代の指揮者がモーツァルト最後のシンフォニー「ジュピター」ということを意識させるように重厚壮大にやっていた演奏を、フットワークのよさで曲の構造をクッキリと浮かびあげた画期的な演奏としての効果はありますが、第2楽章なんかだとリズムを生かした快速テンポが、67小節からの女性が泣いているようなところを横目に見てか、気づかないふりをしてか脇をさっとすり抜けてしまうようなあっけなさというか、冷たさが感じられて、普通女性が涙を流している姿を見たら心を動かされるものなのだから、決してベタベタにやらなくていいからもう少しロマンティックな表現が欲しい気がします。そうきくとブリュッヘンとかアーノンクール、最近ではミンコフスキの演奏はクレバーなところがあるなぁ~とつい比べてしまいます。



これにて全71曲完全聴破しました!
初登場した1980年代をには画期的なディスクでしたが時代と共により個性的な演奏が出てきてしまい陰に隠れがちですが、オリジナル楽器で演奏したモーツァルトの交響曲の基準点としての存在としてきいていきたいと思います。

コメント

  1. 全18回になったホグウッドのモーツァルト交響曲全集視聴記録の完結編。
    次回は今年2015年がミレニアム・イヤーのシベリウス(生誕150年)かショスタコーヴィチ(没後40年)の交響曲完聴記を計画中しています。

    返信削除

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

今週の1曲(18)~R.シュトラウス:管楽器のための交響曲「楽しい仕事場」

ブログの引越し

ありがとう保田紀子オルガンコンサートの開催