ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その11)

ショスタコーヴィチの交響曲完聴記、ついに第15番となりました。
交響曲第15番 イ長調 作品141は1971年にわずか2カ月、それも心臓を悪くしていた病床で完成されました。初演は翌年1月に息子のマクシムの指揮によって成されました。

第1楽章  作曲者は「死」を意識して書いたと思われますが、実にひょうげています。ロッシーニの「ウィリアム・テル」の引用にはじまり、マーラーの交響曲の行進曲をパロディにしているのではないか?
最後の交響曲とはいえ、マーラーの交響曲第9番よりもショスタコーヴィチの交響曲第9番の精神を感じます。

第2楽章  金管楽器のコラール風のメロディーが追悼のようで、それに続くチェロのソロも暗い。そこに応答するフルートが登場ー次第に葬送行進曲を思わせる空気のなか、突然、感情の爆発みたいな、怒りともとれそうな全楽器による死の入口を見せるかのようなクライマックス!その入口が静かに閉じるようにして終わりに向かっていきます。

第3楽章  ショスタコーヴィチ流の諧謔味にどことなく死臭が漂うアレグレット。ヴァイオリン・コンチェルト、シンフォニア・コンチェルタンテを思わせる軽さがあり、ここでも第9番交響曲との類似性を感じます。

第4楽章  いきなりワーグナーからの引用による金管合奏ーしかし直ぐに弦楽合奏を中心とした流れるメロディーが始まります。まるでセレナードのようなーシンプルでありながらも「音楽」を感じさせる場面であります。
この延々と続く(多少の入れ替わりや変化もありますが)音楽からは死を先送りにしたいショスタコーヴィチの姿も見えてくるような、、、
でも中間部で運命の時が迫るようにして、第15番の交響曲では滅多に使用しないトッティが炸裂します。
終わりに近づくと木製打楽器部隊による合奏は死へ向かって行進曲を続けていきますーついにショスタコーヴィチ自身も交響曲にもピリオドを打つかのようにして、遥か遠くに消えて全曲を閉じます。
そこには何ともいえない寂しさ、空虚さが残ります。

楽器編成はそれなりに大きいものの、全奏でバリバリやるところが極めて少ないので室内楽的な印象を受けます。枯淡の表情をした、そう!ベートーヴェンの第16番イ長調のカルテットにも共通するシンプルな顔つきをして奥深い響きを持った枯山水庭園みたいなシンフォニー。

演奏しているルドルフ・バルシャイ指揮WDR(ケルン)放送交響楽団はこれといった個性がある程ではないですが、全曲をこれだけのレベルでまとめていれば合格点ではないでしょうか。

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