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ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その6)

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無茶苦茶暑い日が続きますが今週も頑張ってショスコーヴィチの交響曲完聴記、今週は第9番と第10番です。演奏は例によってバルシャイ指揮WDR交響楽団です。 交響曲第9番 変ホ長調 作品70 交響曲第9番といえばベートーヴェン以来、その作曲家の最高傑作が書かれると相場は決まっていました。それもショスタコーヴィチの場合は第2次世界大戦の戦勝を祝うということで手掛けられました。当然誰もがベートーヴェンのあの「第九」のような壮大な音楽を想像しました。しかし、発表された交響曲は軽くシンフォニエッタという形式できました。 その肩透かし戦法!?により運命の神様もあきれ返ったのか交響曲第9番を書く死ぬというジンクスからは逃れてこの後まだ第15番まで交響曲を完成させました。でも、ソ連当局からは睨まれることになりました。 第1楽章、序奏なしでいきなり軽くスキップしながら口笛吹いて街中を歩いているような―ソビエト政府が対ドイツ戦=大祖国戦争の勝利を期待した魂胆を見事に裏切ってくれたショスタコーヴィチ流のペロッと舌を出しているみたいな音楽です。 第2楽章は静かで落ち着いた佇まいの緩徐楽章。その室内楽的な響きは戦勝とは真逆の精神といえるでしょう。でも、乾いたパサパサ感はショスタコーヴィチらしいです。 第3楽章、ここにきて音楽は激しさを加えて金管、小太鼓が軍隊を連想させるような音を出します。それは戦争を思い出すような表現! 続く第4楽章は次の第5楽章への橋渡しのような役割で新しい闘争の前の前奏曲といった不安で陰鬱なもので、ファゴット・ソロに導かれてフィナーレに入っていきます。 第1楽章の楽想が冷静になったみたいな音楽で悲しさが付きまといます。でも急に終わり近づくとテンポ・アップして熱狂の坩堝に放り込まれます!これが戦争に勝利してバカ騒ぎ政府の役人たちを揶揄しているように白々しくて最後は「やってられないよ!」もしくは「つきあいきれないよ!」とばかりにパッと曲を閉じます。 この交響曲は決して軽い=傑作ではないというわけでなく、むしろ彼の持っている手法がギュッと濃縮された作品といえるでしょう。 交響曲 第10番 ホ短調 作品93 第9番の交響曲でシベリア送りになりそうになったショスタコーヴィチ。批判を避けるように映画音楽やオラトリオ「森の歌」といった政府

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その5)

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ショスタコーヴィチの交響曲完聴記、今週は第8番ハ短調作品65です。 演奏は例によってバルシャイ指揮WDR交響楽団です。 第7番が映画音楽風なスペクタクルの描写音楽に近かったものに対してこちらはより精神的にも深い音楽です。 1943年のドイツ軍の夏季攻勢(ツィタデレ作戦)が失敗し、米英連合軍のシチリア上陸作戦の成功、ソ連の冬季反攻作戦が行われ、イケイケムードの中で初演された交響曲。しかし、この作品からはそんな雰囲気はきこえてきません。 全曲の三分の一を占める第1楽章(このディスクでは27’27”)のほとんどが緩徐楽章ともいえるもので、冒頭の苦痛に満ちた心の奥底からの叫びのようにして奏せられる低弦のメロディー。とっても暗くて精神的な音楽でいいねぇ~!と感じます。こういったの好きです。 その暗さを時のソビエト政府は非難したと言われますがこちらの方がはるかに素晴らしいです! 第7番のようなentertainmentの勝る交響曲を書いた後にこの魂の音楽ともいえる第8番を書いてしまうのだからやっぱりショスタコーヴィチは不思議な天才であると思います。 第1楽章の中盤で突然マーチのような音楽が入ってきますが、恐怖に怯える人達(ショスタコーヴィチ自身も含めて)を描いているようです。それが静まると弦楽器のトレモロの上でイングリシュ・ホルンの長いソロが始まりますが、そこに広がるのは戦争で荒れ果てた大地があり、戦争とは何ら生産活動の無いただの破壊でしかないという虚しさを伝えています。 第2楽章はおどけたピッコロやファゴットといった木管楽器がソロイスティックに活躍するスケルツォ風の性格を持つ楽章ですが、どことなく暗い影がついて回ります。 第3楽章は規則正しい弦の刻むリズムから始まるのですが、この急迫感はソビエト軍のドイツ軍に対する反攻作戦の戦場を描いている設定でしょうか?その弦の刻むリズムは戦車のキャタピラ?小太鼓は機関銃の音?突撃する歩兵達?その地獄のようなゾッとするような恐怖が頂点に至るとそのまま第4楽章に入っていきます。それは一転して葬送のための音楽といえるラルゴで、第1楽章のイメージが回帰したような楽章です。 木管のハーモニー吹奏により始まる第5楽章、戦闘が終わり平和が訪れたかのように冷たかった空気が初春の風に変化したようになります。しかし、

今週の1曲(36)~ブラームス:哀悼の歌(悲歌)

今週ご紹介する作品はブラームスの合唱曲 「哀悼の歌」(悲歌)作品82 です。 友人でもある画家、ヘンリエッテ・ フォイエルバッハの死去に際してその追悼として1880年~1881年作曲され彼の母親に捧げられました。 シラーのギリシャ神話の「オルフェオの冥府下り」や美少年アドニス、トロイア戦争で死んだアキレスの母親の嘆きといった「死」に関するエピソードをベースに作られた詩が格調高く、フォイエルバッハの生涯は芸術家として不屈・不変のものとして描いているようです。 冒頭、 「Auch das Schone mus sterben (美しきものとして滅びねばならぬ!)      Das Menschen und Gotter bezwinget (それこそが人々と神々の支配する掟)」 と歌われるカッコイイ詩と音楽に美しすぎて息をのみます! 終わりの 「 Auch ein Klagelied zu sein im Mund der Geliebten ist herrlich(愛する者の口より出ずる 嘆きの歌は素晴らしいものだ)」 を繰り返して曲を感動的に、しかも悲しみを乗り越えるように力強く、名残惜しげに曲を閉じていくところが崇高な感じで最高です。 題名が「哀悼の歌」とあり「死」を描いているのですが、美しくロマンティックな音楽に甘美さがあってブラームスはシブ~イというイメージですが、根っこのところはやっぱりロマン派の作曲家なんだなぁと実感する作品です。 《Disc》 もっぱらマーラー指揮者という印象の ジュゼッペ・シノーポリ が チェコ・フィルハーモニー管弦楽団、プラハ・フィルハーモニー合唱団 を指揮したディスクは繊細な表現が素晴らしいです。あと、FMできいた ティーレマン が ベルリン・フィル を振った演奏も力強さといった面ではとてもよかったと思いました。

中山七里著「おやすみラフマニノフ」を読んで

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クラシック音楽とミステリーを絡めた小説でデビュー作である「さよならドビュッシー」そして「さよならドビュッシー 前奏曲」を以前読んでミステリーというよりはかなりライトなもので音楽小説という傾向が強いもので面白く読みました。   内容は音楽大学の厳重管理の保管庫から時価2億円のストラディヴァリウスのチェロが盗難に遭うという事件を発端に様々なことが起きていきます。 今回もデビュー作から登場している岬洋介という人物が探偵となり事件を解決に導きます。 ミステリーという面から読むとチェロ盗難のトリックはやや強引であったり、まとまりの無いオーケストラがしだいにまとまっていくくだりはマンガ「のだめカンタービレ」にダブったり、オーケストラのチューニングがヴァイオリンから始めるとか、オーケストラの金管・木管楽器の配置について首を傾げる描写などがあったりと雑念が入りますが、謎解きを楽しむというよりは登場人物の成長、所々で語られる言葉が印象に残ります。そしてなんといってもこの本はクラシック音楽を文章として読ませるということでは一番面白いです。 物語の最初に出てくるベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の演奏シーン、パガニーニの「24のカプリース」や集中豪雨の中、避難所の体育館でチャイコフスキーにヴァイオリン協奏曲、物語のクライマックスで演奏されるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では音楽描写と登場人物の心情表現の両立が見事です。 難しい言い回しや複雑なテロップが無いぶん、文学としてみたもの足りないですが、クラシック音楽ファンなら音楽の演奏場面だけでも読んでみると良くきき込んでいる作品でも改めてきいてみたくなります。 作品のあちこちで語られる言葉には作者から読者へのメッセージが込められているようで、例えば56ページでは音楽家を目指す学生のアルバイト先であるとんかつ屋の親爺さんが音楽を職業とする難しさを述べる所は楽器を習わしている親子に、86ページでは就職活動を全敗した女子大生が愚痴るところは学生のみではなく正規雇用で働けない若者たちにも読ませてあげたいです。 331ページで出てくる「音楽は職業ではない。生き方なのだ」というくだりは七里さんがこの作品を通じて一番伝えたかった事のように思われ、この方は作風からはあまり感じられませんが熱い心の持ち主なのでしょうか?

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その4)

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バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団によるショスタコーヴィッチの交響曲全曲試聴シリーズの今回は第7番ハ長調作品54「レニングラード」をききます。 第二次世界大戦におけるドイツ包囲下にあるレニングラード市内で作曲され、第7番・第8番・第9番は戦争三部作ともいわれます。 1942年に初演されるとともにイギリスやアメリカなどにおいてもファシズムと戦うための戦意高揚音楽のような大々的な扱いを受けていたそうです。その好評ぶりに当時アメリカで不遇をかこっていたバルトークは嫉妬してか皮肉たっぷりに「国家の奴隷になってまで作曲家するヤツは馬鹿者」みたいなコメントを残しています。 各楽章には戦争を意識させる「戦争」「回想」「祖国の荒野」「勝利」といった副題が付けられていましたが初演時には全て削除されたそうです。 第1楽章、ショスタコーヴィチらしい?明快で分かり易い始まり、いかにもききて(ソ連共産党)を騙すためのテクニックのように感じます。田園的で確かに耳になじむ美しいメロディーではあります。そこに侵略のテーマといわれるメロディーが小太鼓によって示されますが最初フルート・ソロによるのであまりにものんきにきこえて―平和に暮らすところへ遠くからドイツ軍がやってくるという表現なのかもしれないですが、何とも危機感が少ないものです(それも12回!も繰り返される)あまりにも開放的にきこえるのでまるでドイツ軍が解放者!?では?と思ってしまいます。 そのテーマが次第に牙をむいて侵略が始まります・・・軍靴に踏みにじられる大地、銃撃、ダイナミックな音響に圧倒されます。その後しんみり調の音楽、戦禍による人々の嘆きを歌っているようですが、明日への希望を与える感じがなんとも予定調和的な印象で全体的なストーリーが読めてしましそうです。 第2楽章、ひっそりとしたオーボエ・ソロの情感あるメロディーからはじまります。そこへクラリネットが素っ頓狂な―高音で奇声を発しているように吹かれて、ききてが驚いているところにスケルツォを思わせる動きが戦争を回想しているように思われ、嫌な記憶が駆け巡った後に再び冒頭の静けさが戻って来て楽章を閉じます。 第3楽章、弦楽合奏によるエレジーは第5番・第6番の緩徐楽章を思わせ、木管楽器のハーモニーはコラールのように響く長大な楽章(この演奏では約18分) 寒々として広々

ショスタコーヴィチ:交響曲全曲完聴記(その3)

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ショスタコーヴィッチの交響曲をバルシャイ指揮ケルン放送交響楽団による演奏で順番にきいていくシリーズの第3回。 「革命」 の副題でも呼ばれることがある 交響曲第5番ニ短調作品47 からきいていきます。 彼の作品中でも代表作=傑作という扱いを受けている交響曲ではありますが、今回こうやって第1番から順にきくと同時にショスタコーヴィッチの生涯についても調べていると傑作化ということに関しては個人としては「保留」という意見になりました。 この作品が発表された時期というものを考えてみると、ショスタコーヴィッチの地位は極めて危うい時のもので、発表する作品、作品がソ連当局により「非社会主義的」と断罪されていました。 ちょうどスターリンによる大粛清時代とも重なり、前衛的な交響曲第4番も初演直前に取り下げるという経緯もありました。 この時代のソ連において当局に睨まれるということは=社会的失脚を意味して、「死刑」もしくはシベリアかどこかに連れ去られてしまうという極めて危険な状況下であったということです。 そういったことでは「生きていくために書かれたシンフォニー」と言ってもいいかもしれません。ですから第1番から第4番からきいてきた耳にはちょっと腰が引けているように思えます。 彼独特のリズムや打楽器攻勢、金管楽器の咆哮、アイロニーに満ちたフレーズが控えめで、バランス重視の構造、分かり易いクライマックス設定にきこえます。それが当時のソ連当局をダマシて現代の我々の耳もだましているのでしょう。 第1楽章の冒頭は言うまでもなく第5番=ニ短調、そう!ベートーヴェンのそれ「運命交響曲」を明らかに意識してテーマをつくっていると気付く、かなりケレン味がある弦楽器によるカノンです。 第2楽章間奏曲風なスケルツォ。マーラーっぽい香りがする始まりから次第にリズムや管楽器にショスタコーヴィッチらしいひょうげたフレーズが登場―しかし暗い影が常に付きまとっています。 第3楽章このラルゴにこそショスタコーヴィッチの交響曲第5番の存在価値があるといっていいのではないでしょうか?そのくらい美しくて沈痛な響きに満ちています。 とめどなく流れる涙のようです。それをグッと怒りなのか痛みなのか、それともその両方なのか?をこらえているみたいです。 金管はすべてお休みで弦楽器―それも弦楽五部をさら

今週の1曲(35)~テレマン:12の幻想曲(無伴奏ソロ・ヴァイオリンのための)

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皆さんは ゲオルク・フィリップ・テレマン (1681~1767)に対する認識はどんなものでしょうか? J.S.バッハよりも4歳年長で、なお17年も長生きした彼は20歳そこそこでアイゼナハの宮廷楽長から教会務めを経てハンブルクの街の音楽監督として過ごした時期に代表作と言われる「ターフェルムジーク」や協奏曲などの数々を残しています。また、そういった作品を出版して収入を得るといったビジネスの才能もあって、当時はドイツの地方都市の楽長でしかなかったバッハに比べることもできないくらいの名声と人気を誇っていたそうです。 作風は表現がストレートで長調では明るさと温かさ、時にはジョークを交えつつ、短調ではマジメな顔つきでとメリハリがはっきりしています。技巧的なところやきれいなメロディーもあるので才能が豊かであったことは確かで、 休日の朝のひと時や精神衛生上からもふさわしい音楽でしょう。 でも、ここまでテレマンの作品が残ってきたのは新しい感覚を身に付けていた人で、特に晩年はドイツの文学運動から派生した「シュトゥム・ウント・ドラング」の時代でありましたが、そういうものには染まらず、バッハの息子たち―フリーデマンやエマヌエルなど前古典派のような響きにも似ています。 しかし、私にとってはテレマンが大作曲家なのかビミョーな位置にいます。一般でもこのオリジナル楽器演奏氾濫のなかそれなりに演奏もされ、ディスクの数もあるのにバッハやヘンデル並みの扱いではないと思います。 それは彼があまりににも多くの曲を書きすぎたということに尽きるのではないでしょうか? その数4,000曲!オペラや声楽曲、器楽曲、室内楽曲、オーケストラ組曲、そして当時あった楽器の全ての組み合わせで書いたんじゃないかと思われるコンチェルトの数々! 例えばソロコンチェルトはもちろん、二重奏以上の合奏協奏曲もヴァイオリン、フルート、リコーダーあたりの組み合わせは普通で、3本のオーボエやホルンのためのもの、確か3本のトランペットにオーボエだったかフルートが加わり、ティンパニも入るコンチェルトを目にしたことがあります(未聴ですが音量的にはかなりにぎやかというかグロテスクな感じが漂ってきそうです・・・) そんな子だくさん?なテレマンから 独奏ヴァイオリンのための12のファンタジー(幻想曲)  をご紹介します。