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ひろしま美術館の印象派絵画展

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ひろしま美術館の印象派コレクションの展示を観てきました (於:長野県信濃美術館) 入って1枚目の絵から飛び込んできたのは色が暗くて、アラブ人の肌、大地の色、その3色の調和が見事な作品 ドラクロワ の 「墓地のアラブ人」(1838年) それから マネ の 「灰色の羽根帽子の婦人」(1882年) 帽子の羽根や服の繊維一本一本が立体的で驚きの作品。 あと、 セザンヌ の 「曲がった木」(1888年~90年)   油絵でありながらも水彩画を思わせるタッチ、そして日本の田園風景を写生したみたいに感じました。 セザンヌ はもうひとつ 「坐る農夫」(1897年) が展示されていました。 こちらはバリバリの茶色を基調にした土の香りまでしてくるような絵・・・ 他にもルノワール、マティス、ドガ、シャガール、同時期のピカソ、そして印象派からインスパイアされた日本人画家の作品もありました。 日本人画家では構図、暗い色、人物の感じといい、まるでレンブラントへのリスペクトみたいな 佐分真 の 「貧しきキャフェーの一隅」(1930年) 鴨井玲 の 「村の酔っ払い(三上戸)」(1973年) そこには少し狂気みたいな空気があって芸術の奥深さのほんの一端に触れることが出来た有意義な時間でした。 自宅から高速道路を使わなかったので往復2時間30分。 車中できいた音楽は以下の通りです。 ●ドビュッシー:「子供の領分」・「版画」・「ベルガマスク」組曲・「ピアノのために」                                               ピアノ:サンソン・フランソワ ●モーツァルト:ピアノ協奏曲第15番変ロ長調K.450/第16番 ニ長調K.451        ピアノ・指揮:マレイ・ペライア/イギリス室内管弦楽団 ●シューマン:交響曲第3番変ホ長調Op.97「ライン」 指揮:オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団

『ニーベルングの指輪』完聴記(4)

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ついに 「ニーベルングの指輪」完全聴破も「たそがれ」編!! 本日はその 第3夜楽劇「神々のたそがれ」 あ~長かった、くたびれた。。。というのが第一印象。 ここ1か月ワーグナーの音楽が連日頭の中でグルグル回り、彼の音楽は「麻薬」といわれるけれど本当にそうです! そして上演に5時間超!序幕と3幕11場!!というオペラの恐竜みたいなきき手にも演奏家にも体力・精神力を要求する作品。4部作の最後を飾るにふさわしい規模をもっています。 対訳本上下巻で660ページを超える!   この作品で気が付くのはワーグナーが一度否定して廃した「重唱」が目立つことです。 *複数の人物が同時に違う歌詞を歌うのはドラマ的ではないとして「オペラとドラマ」という論文で書いているそうです。 そういった面では「ジークフリート」が新しい響きに満ちていたのに対してこの作品はオペラ的な感じがするのできき易いかもしれません。 第1幕第2場ヨーゼフ・グラインドルのハーゲンが独白する場面ではこのキャラクターが持っているとてつもない腹黒さが見事に表現されています。 ジークフリートと妾腹の子である自分の身分の差を比べつつも自らの計略第1段階が成功したことに喜びつつ 「das Niblungen Sohn」 (このニーベルングの息子に) と歌う瞬間はゾッとします。 第2幕第5場、裏切られたと思い込んでいるブリュンヒルデ、迷うグンター、指輪を手にしたようにほくそ笑み3者の思惑が入り混じりながらジークフリート殺害の陰謀が仕組まれるところ―グンターが歌う 「Sigfred Tod!...」(ジークフリートの死か!...) という歌詞はその前に感情を込めてハーゲンがグンターに向かい「dir hilft nur Sigfred Tod!」(お前を救うのは、ただ、ジークフリートの死だ!)と言ったことへの返答であることからインパクトが小さくてそのまま聞き逃してしまいそうですが、この英雄・悪人・偽善者・・・などなど強烈キャラクターばかり登場する「ニーベルングの指輪」ではどちらかというと印象の薄いのですが、ギービヒ家の惣領にして領主でありながら臆病で、虚栄は張りたい内面の葛藤をよく表し、これから展開する終末を決定づける言葉ではないでしょうか? トマス・スチュアートがその揺れ動く心から、

『ニーベルングの指輪』完聴記(3)

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自分が年齢を重ねるとほんの10年前なら躊躇なく挑戦したことが今では必ずその前に立ち止まって失敗を 「 恐れて」 「やっぱりやめておこう」となることが多くなりました。 それはそれで経験値が上がっていることになるのでしょうが、後で「やっておけばよかった」と後悔することも多々あります。    この「ニーベルングの指輪」第2夜にあたる 楽劇「ジークフリート」 はヴォータンが中心となっていた神の世界が 「恐れを知らぬ者」 イケイケどんどんの若者ジークフリート(ヴォータンの孫にあたる)へと世代交代が軸となっていきます。 しかしこの楽劇、前半から中盤まで深い森が物語のほとんどを占め登場人物も少なく(中盤まで男声しか登場しない)物語も大きな起伏があるわけではないのできき続けるのがしんどくなってきます。さすらい人(ヴォータン)とミーメのクイズ場面(第1幕第2場)などは前2作までのストーリーのダイジェストのようになっていてまるでライトモチーフの復習ではないか?と思いながら「ラインの黄金」からきいてきているきき手にはしつこく感じる箇所ではないかな?とも考えます。 そしてそうした試練!?が延々と続き第2幕第3場でやっと大蛇(アルベリヒ)とミーメを倒したジークフリートが鳥の声が理解できるようになった瞬間に小鳥の女声エリカ・ケートが登場するとホッとすると同時に視界が開けたような解放感があります(ワーグナー自身は小鳥役にボーイ・ソプラノを指定しています) 私は戦争映画「Uボート」を思い浮かべてしまいました。 第2次世界大戦におけるドイツの潜水艦(Uボート)における乗組員が極限状態・不条理(戦争自体が不条理なものですが)に次々直面する内容ですが、主役は「Uボート」自身で艦長以下乗組員の面々も、そしてわずかしか登場しない女性。本当にストイックな映画でこの楽劇に通じるものがあります。 そしてこの楽劇で重要なことは作曲期間に大きな断絶があることです。 彼自身このニーベルングの物語に基づく4部作完結は半ば諦めてしまったと思われるように楽劇「トリスタンとイゾルデ」、楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を完成させたのち再び作曲に取り掛かった第3幕、そういった詮索をしなくても雄弁壮大な前奏曲からはこの作品へかけた意気込みを自然とききとる事が出来ると思いま

『ニーベルングの指輪』完聴記(2)

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今週は「指輪」の第1夜 「ワルキューレ」 です。 このオペラは4部作中で最もよく知られている「ワルキューレの騎行」が含まれているので昔から単独で取り上げられる機会もあり第1幕だけの録音とかがあります。それだけ魅力溢れる作品であるともいえます。 確かに第1幕ではジークムントとジークリンデの恋愛を第2幕ではこのオペラの主人公と言って過言ではないブリュンヒルデの行動、そして第3幕ではブリュンヒルデとヴォータンの対話(対立)と永遠の別れ―それぞれにききどころと劇としての吸引力・緊迫感があります。 今回きいているベームのCDでもライヴならではの熱気が感じられてその緊迫した舞台の空気をきくことができます。 フンディングを歌っているゲルト・ニーンシュテットのドスの効いた声がいかにも山賊の親分といった知性はほどほど、腕力と存在感はあるという役柄にぴったりです。 そしてもちろん主人級のジークムント(ジェイムズ・キング)も立派で第1幕第3場、翌日のフンディングの対決を前にしながらも丸腰なのを嘆きながら武器を求め「ヴェルゼ!ヴェルゼ!」と歌う箇所の迫力! 第2幕では最初からヴォータンのテオ・アダムとブリュンヒルデのビルギット・ニコルソンの熱演に魅かれます。 そして、ここでもヴォータンは公私ともにイライラと怒りに悩まされます(きっと胃薬手放せない)そして妻から追い詰められ、娘に背かれてその存在感が希薄になっていく中で第3幕第3場の「ヴォータンの告別の場面」における歌唱は厳粛なものです。 オーケストラも当然すごいものです。第1幕前奏曲が嵐を表現する低弦部の動きがバイロイト祝祭劇場という環境も影響しているせいかもしれないのですがモゾモゾした響きが印象に残ります。きき所になる「ワルキューレの騎行」ではキラキラしたした響きを楽しむより端正な美しさがあります。 [配役]  ジークムント…ジェームズ・キング(T)  ジークリンデ…レオニー・リザネク(S)  フンディング…ゲルト・ニーンシュテット(B)  ブリュンヒルデ…ビルギット・ニルソン(S)  ヴォータン…テオ・アダム(Br)  フリッカ…アンネリース・ブルマイスター(M)  ゲルヒルデ…ダニカ・マステロヴィッツ(S)  オルトリンデ…ヘルガ・デルネシュ(S)  ヴァルトラウテ…ゲルトラウト・ホップ(A)

『ニーベルングの指輪』完聴記(1)

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今年はワーグナーの生誕200年。そして5月は22日は彼の誕生日。 買ったままのカール・ベーム指揮1966,67年のバイロイト音楽祭における『ニーベルングの指輪』全曲をききはじめました。 今まで放送や管弦楽版のディスクで断片的にきくことはあっても自分から進んできくことはありませんでしたが、こういった メモリアルイヤーに便乗してチャレンジすることにしました。 今日は序夜『ラインの黄金』から。 まずオーケストラの響きが充実しています。 ベーム=晩年のゆっくりなテンポで良い意味で重厚、言い換えると鈍重で残念な演奏の印象が強すぎたのですが、ここにはとても澄んだ音と推進力があります。それは彼の年齢やライヴという条件はもちろん、ベームという指揮者が典型的なカペルマイスターであったことであり、劇場、歌手、楽団員、聴衆に満足感を与える術を長い経験を通じて備えていたことは言うまでもないでしょう。 ひとつだけ挙げるとしたら第4場神々がヴァルハラヘ入城する場面、ここは当然きき手も陶酔に浸る所ですがー外声部の輝かしい音だけでなくて内声部がくっきり浮かびあがってきこえてきくるので高揚感も尋常ではありません! 歌手ではヴォータンのテオ・アダムは私共に苦悩するリーダーという役を陰を背負ったように、しかしちょっと抜けてるじゃないか?実際にこの物語ではヴォータンの優柔不断な態度が神々や周辺まで巻き込んで没落していくのだからー深い歌声がきけます。 それにしてもワーグナーという作曲家はケシカラン!です。ただの宝探し的ストーリーに神話を織り混ぜただけの展開をオペラにして、それも上演に4日間も!続けるとは。。。だいたいラインの乙女達が余計なおしゃべりをアルベリヒに言わなければこんなことは起きなかったのに!(だから女性のおしゃべりは・・・失礼しました。口を慎みます)っと言ってもミもフタも無いので来週末は第1夜『ワルキューレ』です。 [配役]  ヴォータン…テオ・アダム(Br)  ドンナー…ゲルト・ニーンシュテット(B)  フロー…ヘルミン・エッサー(T)  ローゲ…ヴォルフガング・ヴィントガッセン(T)  アルベリヒ…グスタフ・ナイトリンガー(Br)  ミーメ…エルヴィン・ヴォールファールト(T)  ファゾルト…マルティ・タルヴェラ(B)  ファフナー…クルト・ベーメ(

ブーレーズのマーラー(2)

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マーラーの交響曲の演奏では改めて言うまでもなくバーンスタインが筆頭に挙がってきますが、彼の感情移入たっぷりの涙と慟哭でいっぱいにされた後、立ち上がれないほどの重荷を背負わされたような―そこにはバースンタインのケレン味も感じる場合もありますが―ブーレーズ盤は当然そんな音楽はきこえてきません。 決めれたサイズ、規格で出来た精密機器のように、まさに「冷たい」と表現したほうが良いというものですが、これは彼の演奏なら予想されたことです。まるで「泣きたければ泣け」と言われているみたいと感じる方もいるかもしれません。 マーラーの交響曲というのは大音響で「聖」と「俗」が入り組んだ複雑なスコアで様々な楽器が、それはもうハイドンやモーツァルト、それからベートーヴェンといった人達のものより何倍も盛り込まれ、音の洪水みたいになっている音楽なので録音状態はいい方がきき易く「マーラーの交響曲は大音響で鳴っていればOK!」というきき手の方にブーレーズ盤はお勧めできます。 マーラーの交響曲第7番は「夜の歌」という副題が付いていてもなかなか評価が定まらず「支離滅裂な作品」とされていますがブーレーズの交響曲全集の録音中、一番高く評価したいです。 私のマーラーの交響曲体験は「大地の歌」(これを交響曲とするかは意見がいろいろありますが)から始まり第9番の次くらいにきいたので結構早い段階で接してきたせいかも知れませんが、一番彼の交響曲でピン!ときた作品なので最初、評価が低いと知ってショックでした。 第1楽章の混沌とした世界(独特なテナー・ホルンによる音色が印象的)第2・4楽章の憂いを帯びていながらも優美な音楽。ギターやマンドリンまでも使用したその響きにも魅かれました。その音楽に挟まれた不安や焦燥感をもった第3楽章のスケルツォ。そして第5楽章の歓喜?狂喜?ともいえる爆発的な音楽。初めてきいた時は人類の終わりを前にして羽目を外した大騒ぎではないか?それともベルリオーズの「幻想交響曲」の終楽章ではないですが―死後の地獄絵図をきいているみたいでした。 ブーレーズ盤の話に戻りますと、彼は第5番から始まった「純器楽」による交響曲のひとつの到達点として演奏しているように感じ、本当によく楽器がなっています。それは冷たいだけではなくて、例えば第4楽章のヴァイオリンがとても甘美なメロディーを演奏しています。 オー

ブーレーズのマーラー

私が音楽をきき始めた頃、ちょうどマーラー交響曲全曲演奏会みたいなものが最盛期で(不景気とは言われながらもまだまだ好景気時代の余韻がありました)シノーポリ、ベルティーニ、若杉弘さんの演奏をNHK-FM中継できいた覚えがあります(3人の指揮を全曲ではありませんが・・・確か若杉弘さんの演奏会の中継放送は途中で放送しなくなったような気がします。。。) ほぼ同時期にこのような演奏会があったことは今になって考えてみればクラシック音楽が投資対象として主催者も儲かった最後の頃かもしれませんが、当時は「マーラーの交響曲が全曲きける!」ということのイベントに喜びを感じていました(長大なマーラーやブルックナーの交響曲やオペラの全曲のCDを買う金銭的ゆとりが無かったことと共にそれを購入しても理解する耳を持っていなかったという理由もあります。しかし、今はゆとりと理解する耳を持っているのか?と問われると言葉はありませんが。。。) さて、彼の交響曲をきいて感じたのは様々なメロディーとハーモニーそして交響曲とは思えない楽器、カウベル、ハンマー!などの音響に驚き、合唱の迫力に押され、圧倒されました。最初はその音の響きとパワーをきくのみでした。 その後、ピエール・ブーレーズがマーラーの交響曲を様々なオーケストラを振り分けてグラモフォンに録音を始めたと知った時は「ブーレーズ、あなたもか!」と感じ、どうせブランド志向のディスクになるのだろうなぁ~と想像し「知的な闘志」と思っていた彼もいよいよ大衆迎合するようになったのかと半信半疑で第1弾だった第6番「悲劇的」をききました。 一番最初に思ったのは第6番がCD1枚!?ということだった。長時間収録が当たり前のCDでもこの曲がCD1枚に収まるのには相当テンポが速いのでは?という思いは裏切られつつその予想が当たっている所もありました。 まず第1楽章のあの葬送行進曲のような暗いテーマがズンズンと遅いテンポで重厚でありながらクリアな音で始まり驚いた・・・と書いて今日は第7番のことについて述べるつもりだったことを思い出しました。もう少し書くとテンポでいえば全体に遅めであり、特に印象深いのは第3楽章の出だしが小さい音で、まるでブルックナーの交響曲における第1楽章の始まりみたいな感じを受けました。 しかし、前振りが長くなってしまったのでこの辺で切り上げ、続