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鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパン〜ベートーヴェンのミサ・ソレムニス演奏会

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ベートーヴェン ミサ・ソレムニス 鈴木 雅明指揮 バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会に行って来ました! 一生のうちに生できいておきたい曲のひとつでしっかりきき込んでーアーノンクールの二種、カラヤン、クレンペラーで予習しましたー キリエ冒頭から緊張感がはしり、たくさん演奏してきたような手馴れた感があり、さすがバッハの声楽曲をはじめバロックを中心とした作品を手掛けてきた団体だなぁと感心してしまいました。 そしてテキストがハッキリききとれるのも前記と同様の事が理由となっているのではないでしょうか。そしてキリエのニ長調で始まる響きをきいた時、一瞬ハイドン!と頭を過ぎりましたましたーベートーヴェン自身もこの大規模な作品を書くのにあたり、バッハ、ヘンデルからハイドン、モーツァルトなどの先人や同時代の作品に見習い、学び、研究して臨んだのでは?と思いました。 そしてオーケストラがフォルテで鳴る時の激しさと熱気!柔らかなハーモニー!一瞬たりとも気の抜けない演奏に耳と目がステージに集中しっぱなしでした。 ベネディクティクトゥスではコンサート・マスターの寺神戸亮さんが立ち上がり、まるでヴァイオリン・ソナタのような見事なソロをきかせてくれました。録音ではなかなかバランスの関係か上手くきこえないオルガンも存在感がありましたーこれは3階席という場所のせいかも知れませんがー 4人のソリストも申し分ない歌唱であり張りと伸びやかな声に魅せられました。 アーノンクールのように歌唱とオーケストラに関連性がある事を意識させる演奏で、初演された時は難解で聴衆が理解できなかったと伝えられているが、確かにこのダイナミック・レンジと急緩の入れ替わりをきかされれば、理解の前にドギモを抜かれたのではないだろうか?現代の我々はこの作品を理解する耳や知識を植え付けられていますが、それでも初演時の衝撃やベートーヴェンの耳の中ではこんなサウンドが響いていたのかな〜という感じを受けました。特に録音みたいにバランス調整がなされていないライヴだからこそ隠れてしまうようなフレーズがヒョコっと顔を出して、こんなきこえ方もあるんだと気がついたリ、ティンパニや金管楽器の生々しいダイレクトな響きが印象的でした。ピリオド楽器で適正編成なのが、カラヤンのように大編成、倍管編成の音響と壮麗さで圧倒するわけでなく

身辺雑記〜コンサート チケット購入

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バッハのカンタータ全曲&録音を成し遂げたバッハ・コレギウム・ジャパンによるベートーヴェンのミサ・ソレムニスの演奏会がある事を知りチケットを購入しました。いよいよレパートリーをベートーヴェンまで広げてきて興味があります。 2017年2月3日  19:00開演 会場  東京オペラシティ  コンサートホール PS  先日、お世話になっているディスクショップに行ったら地元のコンサートホールでバッハ・コレギウム・ジャパンのマタイ受難曲演奏会のポスターが掲示されていました。見た瞬間こちらも行きたい!と思いましたが・・・我が家の財務長官の承認を得られる自信がありません。。。

ニコラウス・アーノンクールさん追悼〜2016年振り返り

 今回は2016年にきいたディスクから印象に残ったものからー何といってもショックなのがニコラウス・アーノンクールさんの逝去です(3月5日)未だにそれを引きずっていて、このブログで何度か追悼の投稿しようとしましたが、思い止まっていました。  私が音楽をきき始めた90年代、NHK−FMの海外コンサートでウィーン・コンツェントゥス・ムジクスからベルリン・フィルやウィーン・フィル、コンセルトヘボウ・オーケストラ、ヨーロッパ室内管弦楽団などに客演したものがよく放送されていて、それらをエア・チェックしてきいていました。まだろくに音楽をきく耳を持たなかったにも関わらず、目を覚まさせるような響きをコーフンしてきいたことを思い出します。 ハイドン〜モーツァルト〜ベートーヴェン〜シューベルトの古典派からロマン派の楽曲はそれらの演奏で刷り込まれたといっても過言ではないです。そのために今でも他の演奏をきくと物足りないことを感じるこがありますが、、、 残っているエア・チェックの中でも最後の来日公演となったバッハのロ短調ミサ曲の素晴らしさ!実演をきいてみたくも叶えられなかった残念な思い出と共にあります。  ディスクではここ数年、減少傾向を辿るこの業界にあっても意欲的に新録音を発表出来たのは珍しい事ではないでしょうか? モーツァルトの後期三大シンフォニー、ヘンデル=モーツァルト編曲のオラトリオ、ラン・ランとのモーツァルトのピアノ・コンチェルト・・・もっともこれはソリストの人選ミスという演奏でしたが・・・ また、このブログでもアップしたモーツァルトの「ポストホルン・セレナード」と「ハフナー・シンフォニー」ーそして追悼盤になってしまったベートーヴェンの第4番と第5番シンフォニーにミサ・ソレムニス  高齢な指揮者が陥るようなルーティンワークにならずー彼の場合はそんな事は想像できなかったですがーでも、神から自分に与えられている年月を知っていたのか、レパートリーは本当にやりたいものに絞ってー彼には珍しくよく知られた作品の再録音が多かった事は、解釈への自信と手兵コンツェントゥス・ムジクスと音楽を創り出す時間を楽しんでいたようにも思われますが、それにアーノンクールというアーティストが一時期のキワモノ扱いから、巨匠扱いの指揮者になってワガママを言える身分になった事もあるのではないでしょうか?

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その11)

ショスタコーヴィチの交響曲完聴記、ついに第15番となりました。 交響曲第15番 イ長調 作品141は1971年にわずか2カ月、それも心臓を悪くしていた病床で完成されました。初演は翌年1月に息子のマクシムの指揮によって成されました。 第1楽章  作曲者は「死」を意識して書いたと思われますが、実にひょうげています。ロッシーニの「ウィリアム・テル」の引用にはじまり、マーラーの交響曲の行進曲をパロディにしているのではないか? 最後の交響曲とはいえ、マーラーの交響曲第9番よりもショスタコーヴィチの交響曲第9番の精神を感じます。 第2楽章  金管楽器のコラール風のメロディーが追悼のようで、それに続くチェロのソロも暗い。そこに応答するフルートが登場ー次第に葬送行進曲を思わせる空気のなか、突然、感情の爆発みたいな、怒りともとれそうな全楽器による死の入口を見せるかのようなクライマックス!その入口が静かに閉じるようにして終わりに向かっていきます。 第3楽章  ショスタコーヴィチ流の諧謔味にどことなく死臭が漂うアレグレット。ヴァイオリン・コンチェルト、シンフォニア・コンチェルタンテを思わせる軽さがあり、ここでも第9番交響曲との類似性を感じます。 第4楽章  いきなりワーグナーからの引用による金管合奏ーしかし直ぐに弦楽合奏を中心とした流れるメロディーが始まります。まるでセレナードのようなーシンプルでありながらも「音楽」を感じさせる場面であります。 この延々と続く(多少の入れ替わりや変化もありますが)音楽からは死を先送りにしたいショスタコーヴィチの姿も見えてくるような、、、 でも中間部で運命の時が迫るようにして、第15番の交響曲では滅多に使用しないトッティが炸裂します。 終わりに近づくと木製打楽器部隊による合奏は死へ向かって行進曲を続けていきますーついにショスタコーヴィチ自身も交響曲にもピリオドを打つかのようにして、遥か遠くに消えて全曲を閉じます。 そこには何ともいえない寂しさ、空虚さが残ります。 楽器編成はそれなりに大きいものの、全奏でバリバリやるところが極めて少ないので室内楽的な印象を受けます。枯淡の表情をした、そう!ベートーヴェンの第16番イ長調のカルテットにも共通するシンプルな顔つきをして奥深い響きを持った枯山水庭園みたいなシンフォニー。 演奏して

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その10)

ショスタコーヴィチの交響曲全曲をきいていく企画もいよいよ残り2曲、演奏はルドルフ・バルシャイ指揮のWDR(ケルン)交響楽団です。 ソリストはソプラノがアラ・シモーニ、バスがヴラディーミル・ヴァネエフ、コーラスがモスクワ合唱アカデミーとケルン放送合唱団です。 第14番 ト短調 作品135 「死者の歌」 1969年に作曲、初演されたこの交響曲、初演者はバルシャイ指揮のモスクワ室内管弦楽団でした。また、この曲には不思議なエピソードがあって、リハーサルに臨席していた共産党幹部のアポストロフが心臓発作で倒れて病院に搬送されたもの、一月後に死んでしまった。アポストロフはジダーノフ批判の時、さかんにショスタコーヴィチを批判した人だったらしく、祟られたのでは?と噂されたらしいです。 曲は2人の独唱者とコーラス、オーケストラは弦楽器と打楽器のみで、管楽器を含まないという特殊な編成で、楽章数も11もありながら演奏時間は約50分のオーケストラ伴奏付き歌曲集といった顔つきをした交響曲です。 歌詞は前作と異なりちゃんとした⁉︎ロシア、フランスやドイツなどの詩人のテキストに付曲しています。 第1楽章 「深いところから」  テキスト  ガルシア・ロルカ(スペイン) 冒頭から寂寥感があり冷え冷えとした感覚が素晴らしい。その不安定で血の通わない空気感がまるでこの交響曲の序奏・導入部になっているかのようです。 第2楽章 「マラゲーニャ」 テキスト  ロルカ バルトークにも似た乾いたアレグレットのリズム。スペイン人のロルカの詩に付曲していることもあってかカスタネットが鳴り響く。しかし、それはラテンの陽気さではなくて死の舞踏であることが印象付けられます。 第3楽章 「ローレライ」  テキスト  ギョーム・アポリネール(フランス) あの流れるような民謡ローレライではなくて死臭の漂う二重唱。 第4楽章  「自殺」   テキスト  アポリネール 独奏チェロ、シロフォン、チェレスタの音色が恐ろしさと同時に美しさを感じる音楽で、作品の中でも印象に残る楽章です。 第5楽章 「心して」  テキスト  アポリネール 前楽章からアタッカで始まりますが、ズドンコズドンコとというリズムが特徴的です。マーラーを思わせるこっけいでありながら悲しさもある行進曲で、出征し戦死した弟を想う姉の歌で

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その9)

今週は第13番 変ロ短調 作品113 「バビ・ヤール」 演奏は例のごとくバルシャイ指揮のWDRシンフォニー・オーケストラ。 第11番、第12番で革命讃歌とでも表現したいようないかにもソ連政府の喜びそうなシンフォニーを発表した次にきたのは人種問題を扱ったものでした。 表面的には人種差別はないとしていたソ連の暗部であるユダヤ人問題をエトフェシェンコという詩人が書いたテキストを持ち込み、バス独唱と男声合唱も動員したカンタータ風の作品。 そのため歌詞の改変要求をはじめとした政府の圧力などゴタゴタがあったものの、1962年12月に初演されました。 第1楽章  バビ・ヤール 「バビ・ヤール」とはキエフ近郊の地域の名前で、ウクライナに進行したナチス・ドイツ軍がそこにユダヤ人をはじめとしていわゆる《アーリア人》から見ると排除すべき対象とされた人種を大量殺害した場所だそうです。 冒頭から重苦しい低弦が抑圧された音を出して暗くて、不気味で、恐怖も感じます。ショスタコーヴィチマニアの大好物な楽章なんじゃないかぁ〜? バス独唱も野太い声で合唱とやるせない怒りと告発を歌っていて、ファシスト=ナチスだけじゃないことを示唆しています。でも、詩がアンネ・フランク云々から自分はユダヤ人では無いと言ってみたり訳分かりません。 第2楽章  ユーモア 前の楽章を忘れたようにひょうげた明るく活発な音楽で、その裏には風刺や皮肉が効いおり、街のあちらこちらで市民たちがお喋りを交わしている横でヴァイオリンやクラリネットを奏でている音楽師がいるような絵が浮かんできます。ここはリヒャルト・シュトラウスのティル・オイレンシュピーゲルが頭をかすめる場面のように感じます。 第3楽章  商店で 再びアダージョに戻って、品物が無い商店前に寒さに震え行列をつくる主婦たちを描いている。確かにこういった風景を小さい頃、ソ連のニュース映像で見かけて不思議に見えたことを思い出しました。 寒さに震える様子を描いているのか、カスタネットの乾いた響きが執拗に繰り返されるところが不気味であります。 でも詩人本人はその女性たちを横目に見つつ、そのぼったくり商店から、ペリメニ(ロシア風ギョウザ=当時のロシアのファストフードみたいなもの)を買っていく。それに対する後ろめたさかー行列する主婦を「女神」と讃えつつも自分

ショスタコーヴィチ 交響曲全曲完聴記(その8)

今週の投稿は交響曲第12番 ニ短調 作品112 「1917年」です。 前作の第11番に続きロシア革命を描いた第2作めといえるもので、1905年を書いたのだから1917年も書こうという意気で作曲したのだろう。 第1楽章 「革命のペトログラード」 旧サンクトペテルブルク、後にレニングラードとなった都市。低弦群が奏する導入部の暗いこと!主要部になるとアレグロになって闘争的な音楽でクライマックスをつくる。レーニンを描いた作品を書きたかったといわれるショスタコーヴィチ、ここで「レーニン讃歌」にしているのだろうか?躍動的というか高揚感というかシンバルなどの打楽器から金管楽器のあまりの激しい仕事ぶりにめまいがしてきそう… 第2楽章 「ラズリーフ」 密かにロシアに入国したレーニンが潜伏したペトログラード北部の湖の名前で、そこで革命のプランを練ったようで、音楽もそれを連想するように低弦が静かに暗い部屋でひとり物思いに沈むレーニンの姿を想像できる音楽です。中間部でフルートとクラリネットが印象に残るメロディーがあります。そこにふとトロンボーンが荘重に響きますが、これは前に出てきたテーマの再現みたいで、革命へと歩みを進めるレーニンの心情を感じさせるものです。 第3楽章 「アウローラ」 ネヴァ河から冬宮へ砲撃を行って、革命開始の合図を送った巡洋艦の名前で(でも実際に撃ったのは空砲)日本海海戦の数少ない撃沈されなかった艦です。 ゆっくりと姿を現した艦が目の前に現れるようにして音楽がまとめられていき、ティンパニや打楽器が刻むリズムが砲撃のテーマと思われます。 冬宮を占拠するところはまたハデハデな演出。 第4楽章 「人類の夜明け」 大昔のプロレタリア革命の人が平気で名付ける赤面しそうなネーミングの終楽章。 でもそれがこのシンフォニーのいちばんのテーマでしょう。第11番の終楽章は「警鐘」となっていて革命の道未だ成らずと、亡くなった人への悲しみ、弾圧する政府への怒りのうちに終わったものが、この第12番では完結した事を実感させます。 今までのテーマが再現されて階段を登るようにしてクライマックスへと到達させますー 個人的にはこうノーテンキに万歳万歳とばかりに祝砲と讃歌のうちに大団円という音楽には違和感を持ちますが、ここがショスタコーヴィチの魅かれるところで、職人技なの